僕の自宅はここから近い。一人でも十分帰られるのに、マスターは頑なにタクシーを呼ぼうとした。マスターを止めたのは男で、僕を送ると言った。
「打ち合わせ、また明日でもいいですか?」
「そうしようか。ごめんね、颯太くん」
「いえ、大丈夫ですよ」
男はマスターに用があって店にやってきたようだった。それを僕が邪魔をしてしまった。
申し訳なさでいっぱいになる。謝りたくても、僕には声が無い。
「行こっか」
マスターに頭を下げて店を出ると、夜の冷たい風が頬を撫でた。もう、春が近付いているというのに、まだ寒さが残っている。
「…………?」
歩き出そうとすると、男が僕に背中を向けたまま、しゃがみ込んだ。
「ふらついてる。おぶってやるから、乗りなよ」
「…………」
「よいしょ」
長い腕が後ろ手に僕の足を掴んで引き寄せた。かくんと膝が折れて、男の背中に受け止められる形になってしまった。そのまま立ちあがられると、どうしようもなくなる。
抵抗する気力もなかった。気分が悪いのは事実だったし、人目なんてどうでも良かった。
「……朔くん、だっけ」
「…………」
「マスターから聞いた。喋られないんだよね」
男は柔らかい声で、続けた。
「じゃあ、俺が喋るね。佐伯颯太って言います。今年で二十五。ジャズピアニストやってて、マスターとはライブで知り合って、お店で弾かないかって声かけてもらったんだ」
「…………」
「朔くんは、いくつ?」
広い背中に、指で文字を書いた。
「十九?もう少し下だと思ってた」
男―――佐伯さんは、ゆっくり歩く。僕に振動を伝えないように気を使っているのがわかって、なんだかくすぐったい。
マスターもそうだ。全面的に与えられる優しさに、僕は未だにどう接していいのかわからないのだ。
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