なんとかその日のバイトを終えて、クローズ作業に入った。食器類は随時片付けていたから、あとはフロアだけだ。マスターは事務所に戻って売上金の管理をしている。
音楽を止めて、真空管アンプの電源を切った。外に出していた看板を中に入れ込み、店内の椅子を上げ、床を掃く。
最後に、大きなピアノを拭く。店の入り口にどんと構えるピアノは、開いたところを見たことがない。音楽好きのマスターが、ジャズ喫茶らしく、生ライブをBGMに営業をしてみたいと言っていた。
いつか、これが音を鳴らす日が来るのだろうか。
一通り掃除を終えて、裏に道具を片付けようと振り向く。
ぐる、と視界が回ったのは、一瞬のことだった。気付いた頃には頭と肩を床に打ちつけていた。
ぽろ、ぽん、ぽろん。
ピアノの音がして、目が覚めた。身体はふかふかのソファに寝そべられていて、知らない男にここまで抱えあげられたのだと思い出した。
視線を動かすと、ピアノの蓋が開いていた。長身痩躯の男が、立ったまま片手で鍵盤を叩いている。
「……ん、起きた?」
僕が身じろいだ音に気付いて、男が近付いてきた。香水の良い匂いがする。
ピアノを弾くにしては意外な、今風の男だと思った。アパレル系の仕事をしてそうな、モノトーンでシンプルながらも洗練された服装をしていた。
「マスター、今呼んでるから」
そう言って僕の隣に座り、頭をそっと撫でてきた。ふわりと笑ったその顔は、思いのほか人懐っこかった。
しばらくして、ばたばたとマスターがやってきた。
「朔くん」
心配そうな、悲しそうな、まるで、怒っているような表情だった。
『ごめんなさい』と口を動かすと、ぐっとマスターはさらに泣きそうになっていた。
「……あー、まだ具合悪いみたいですし、どこか運びますか」
「いや、颯太くんにそんな」
「何言ってるんですか、俺とマスターの仲でしょ」
どうやら二人は知り合いらしい。いくつか会話があって、颯太と呼ばれた男が僕の身体を抱き上げた。
「痩せてるなぁ……ちゃんとご飯食べてる?」
僕は返事も出来ないし、返事をする気もなかったので、ただ目を閉じた。
男が弾いたわずかなピアノの音が、頭の中をぐるぐると回っていた。
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