きこえる | ナノ


20  




「……朔、お前さ」

 やけに真剣な声になって、違う意味で緊張した。永末さんがカップを持ってきて、受け取った父さんは一口それを啜った。

「戻って、俺と一緒に住めよ」

 やっぱり、と思った。父さんが求めるのはそれしかなかった。そして僕を連れ戻して、僕を捌け口にしていくのだ。
 殴られた頬の熱さを忘れたわけではなかった。背中に残る傷の痛みも、伝う涙の湿った感触も、すべてその場にあるように思い出された。

「……そんな顔すんな」

 父さんはそっと、僕に手を伸ばした。殴られるかと思った。咄嗟に目を瞑ると、頭を撫でる優しさがあった。
 大きな手だった。佐伯さんのそれとはまた違う、ごつごつとした手だった。痛くは、なかった。

「やり直そう」

 ひどく優しい声だった。人撫で声とも違う、柔らかい声だった。父さんの、時々見せる本当の声だとわかった。
 絆されそうになる。頭の警報音が響きわたる。信じていいのかわからないけれど、否定の言葉は出なかった。

「……そんな顔させて、ごめんな」

 する、と大きな手の甲で頬を撫でられた。その指に煙草はもう挟まっていなかった。綺麗な顔が、小さく笑う。あの夜と、同じ煙草の匂いがした。けれどその顔だけは、少し違っていた。
 混乱する。どうして良いのかわからなくなる。信頼するには情報が足りなさ過ぎて、けれど縋るには十分、僕には愛情が足りていなかった。
 愛されたい、信じたい。騙されるな、絆されるな。色んな感情がせめぎ合って、声にならない声だけがずっと漏れていた。

「朔」

 渇いた喉を潤そうと、テーブルの上のグラスを手に取ろうとした瞬間だった。父さんが僕の手を掴んで、ぎゅっと握りしめた。指をねっとりと絡めて、長い親指で手の甲を撫でた。
 拒否すれば逃げられる強さなのに、動けなくなった。甘い麻薬に頭が痺れそうになって、僕の手を握る大きな手をじっと見つめることしか出来なかった。

「お客さま」

 どん、とその手の隣に水のピッチャーが置かれた。意識がどこかにいっていたのか、びくっと身体が反応した。見上げた先には、にこりと笑った永末さんがいた。

「お冷のおかわりは、いかがですか?」

 笑ったその顔には、微かな苛立ちのようなものが見えた。父さんは僕の手を少し撫でて離し、笑顔で結構です、と返した。
 握られた右手が、痺れたように動かなかった。


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