目の前でグラスに入った氷が溶けて、から、と音をたてた。
僕は永末さんのカフェ『黒猫軒』にいた。
父さんの会って話がしたいという提案に、この場所を指定したのは僕だった。ここは佐伯さんの家から少し距離があるとわかったからだ。アンダンテにしなかったのは、佐伯さんとマスターに心配や迷惑をかけたくなかったからで、ただ僕のことを知らない店に行くのには勇気が必要だった。
永末さんは、僕の事情を知らないけれど、僕のことを知ってはいる。他力本願ということはわかっていたけれど、多少大きなことになっても、安心ではあると思ったのだ。
何かあったときに、佐伯さんへの連絡をしてくれるだろうことも踏んでいた。
「朔、誰かと待ち合わせか?」
グラスを磨きながら永末さんが問い、僕は小さく頷いた。
僕が座るのはカウンターから見える、三人掛けのテーブルだ。昼間の黒猫軒は、客足も少なく、落ち着いていた。
かろん、と入口のベルが鳴って、心臓が高鳴った。
「よう」
真っすぐ僕のところにやってくる足音、頭上から投げかけられた言葉に、父さんだとわかった。膝の上で作っていた拳を、ぎゅっと握りしめる。
つ、と背中に冷や汗がつたって、必死に呼吸を整えた。大丈夫だ、外で父さんは暴力を振ったりはしない。ここにいる限り、大丈夫だ。
「洒落たところだな」
目の前の椅子に、父さんが座った。ちらりと目線をあげると、煙草に火をつける姿があった。ぞく、と背筋が凍る。落ち着け、と膝を握りしめた。
父さんは、ひどく若い。僕と兄弟と言ったほうが納得するような容姿をしている。いくつになるだろうか。
母さんのことは覚えていない。話されたこともなかったし、聞いたこともなかった。家にいる女の人は、ころころ変わっていた。
「そう怯えるなよ」
父さんの手が僕の顎をくい、と上げた。目があって、にやりと笑われる。嫌になるくらいに整った、綺麗で、恐ろしい顔だ。
僕とは似ていない、極整な顔だ。
『はなしは、なに』
「……何お前、まだ話せねぇの」
とん、と僕の控えめな喉仏を突かれる。ひっ、と息が漏れそうになるのを抑えた。
永末さんがお冷とメニューを持ってきて、父さんは一言、ブレンドとだけ答えた。永末さんが僕を見ているのがわかったけれど、顔は上げられなかった。
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