「それじゃ、行くね」
玄関で佐伯さんが言いながら、僕の頭を撫でた。
撫でられるたび、小さな子どもじゃあるまいしと思うのに、それが嬉しく感じてしまうのは僕がまだ子どもだからだろうか。
今日は定休日明けの営業日だ。マスターから連絡があり、半強制的に僕は休みになった。
最初はやけになっていて、行こうと思っていた。けれど、外に出ようとした瞬間に手が震えた。
ドアの向こうで、父さんが待っている気がした。
「何かあったら、すぐに電話すること。一人で外を出歩かないこと。いい?」
子どもに言い聞かせるように、佐伯さんは何度も確認している。本当は一緒に休むと言ってはいたけれど、僕が拒否した。マスターにこれ以上迷惑はかけたくなかった。
「なるべくすぐ、帰ってくるから」
思わず縋りつきたくなる。行かないで、一人にしないで、と言いたくなる。けれどその権利は僕にはない。これ以上佐伯さんの重荷にはなりたくなかった。
伸ばしそうになる手を止める。借りた佐伯さんのTシャツは、僕にとっては大きすぎる。余った裾をぎゅっと握りしめた。
「……朔くん」
本当は、怖い。いつ父さんがやってくるのか、わからなくて怖い。佐伯さんの家が僕の家とどれだけ距離があるのかはわからないけれど、現に父さんは僕の家までやってきたのだ。
世界の果てまで、追いかけてくるかと思った。
「ね、抱き締めても、いい?」
朝から何を言っているんだろう。俯いていた顔を上げると、僕は許可をしていないのに、ふわりと抱き締められた。
佐伯さんの匂いがする。シャツと同じ匂いだった。最近気付いたけれど、佐伯さんは香水を使っていない。洗剤やシャンプーの匂いが混ざった、佐伯さんの匂いなのだ。
「はぁ、行きたくない」
ぽつりと佐伯さんは呟く。大きな腕に落ち着いて、思わず溜め息が漏れた。
いつからだろう。佐伯さんに安心するようになったのは。
そろそろ行かないと間に合わなくなる。ぽんぽん、と佐伯さんの背中を叩くと、名残惜しそうにゆっくりと離れていった。
「……いってきます」
にこりと笑ってくれたので、僕も頷いて応えた。
安心の居場所を見付けた気がした。
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