駅から一本、道に入った通りから、また細い路地へ入りしばらく。喧騒から離れたそこは、ビンテージショップや小洒落た美容室などが軒並み連ねている。その一つにひっそりと、僕がバイトをしている喫茶店はある。
「朔くん、ブレンド一つ」
古い真空管アンプからジャズが流れる店内には、穏やかな顔をした中年の客や、本を読む若い女性が多い。チェーンの喫茶店とは違い、活気や人気はここにはない。
ホールからマスターの声がして、僕は温められたカップを手に取った。ホールにいるのは経営者でもあるマスターが一人。キッチンには僕一人。マスターはイギリスにしばらく住んでいたと言うのが納得できるような、柔らかな白髪が印象的な老人だ。対してキッチンの僕は十九歳の若造。本来は仕事が逆なんじゃないかと思う。
僕にホールは出来ない。
何故なら、声が出ないから。
「ありがとう」
カップに熱い珈琲を注いで渡すと、マスターは柔らかく微笑んだ。キッチンの仕事とは言え、メニューに最低限の食事しかないこの店では、ドリンクの注文がほとんどだ。
マスターは、僕が声が出ないことを知って、ここで雇ってくれている。
マスターとの出会いは、四年前のこと。冬空の下、駆け込んだ教会でのことだった。
目を瞑れば思い出す。薄いシャツだけ着た僕は、家を飛び出した。当時は食欲があって、けれど食べ物はなくて、どこに助けを求めていいのかわからなかった。
辿りついたのは街の外れの教会で、夜が近づく薄暗闇の中で、ぼんやりステンドガラスに浮かぶオレンジ色の明かりが暖かそうで、思わず扉を開いた。
初めて、手を差し伸べられた。逃げきったと思った。
近付くごつごつとした手と、金切り声と、熱い、煙草の熱と、痛みと、肌を伝う血の感触、
「朔くん!」
びくっ、と身体が震えるほど驚いた。突然掴まれた肩は思いのほか強くて、一瞬だけ、父親の手を思い出した。すぐに緩んだその手は、マスターのものだとすぐにわかった。
「顔色が悪い、裏で休んでおいで」
ふわ、とマスターは笑う。マスターは僕の過去を全部知っている。知ってて、わかってて、僕をここに置いて、こうやって助けてくれる。
大丈夫です、と意味を込めて、顔を横に振った。マスターは途端に心配そうな、悲しそうな顔をした。
「本当に?……無理しないで、すぐに言うんだよ」
マスターは優しい。優しいから、僕が無理することもお見通しだ。だからこそ、心配をかけたくないとも思う。
『お腹が空いたら、私のところにおいで』
駆け込んだ教会にいたマスターは、僕に暖かいスープを与えて、そう言った。
あの時、何故か流れた涙以来、感情は忘れた。
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