『とうさんが、きた』
と、朔くんは小さな文字を書いた。その手は微かに震えていた。
その姿を見て、俺は逆にほっとしていた。朔くんが自分から、自分のことを話すのは初めてだった。俺に助けを呼んだのも、初めてだった。
朔くんを家に送り届けて数分後、慌てた様子で駆け寄った姿に驚いた。走っているのも初めて見た。何事かと問いただしても、朔くんは何も言わずに、ただ背後を気にしているようだった。
俺の腕を引いて、顔を真っ青にして、背後を気にしていた。逃げようとするようなそれに、何かに追われているのかもしれないと気付いた。物騒な世の中だ、変質者がいてもおかしくない。俺くらいの体格になればそうそう襲われることはないかもしれないけれど、朔くんの小柄さだったら、まだあり得る話だった。
朔くんを上着の中に隠して進んだ。背後から追いかけてくる人はいなかった。逃げたのかもしれない。もう大丈夫だと家に送り届けなおそうとしたけれど、錯乱したような様子の朔くんは、首を振ってそれを嫌がった。
相当、怖い思いをしたのかもしれない。このまま帰すのも気が引けて、俺の家に泊まらせることにした。家に着いた頃には、朔くんは眠ってしまっていた。
その時は、まだそれくらいにしか思っていなかった。嫌なことというのも、変な人に会っただとか、そういうものだと思っていた。けれど朔くんの様子は、それ以上の怯えを孕んでいた。
「お、とうさん」
もやもやしていたものが、一本に繋がった気がした。朔くんが怯えていたのは、見知らぬ他人ではなかった。一人暮らしをして、実家から逃げてマスターに保護された、朔くんが父親に会いたがっているわけがない。
断片的な情報が繋ぐ、朔くんが虐待をされていたであろう事実。そこに差しこまれた、父親の登場とそれに対する怯え。想像の上でしかなかった仮定の事実は、確実なものに変わった。
朔くんに暴力を振るい、声を奪うほどのトラウマを植え付けた張本人が、朔くんを訪れたのだ。
『こわい』
朔くんは、また一言書き加えた。ソファに座っていた朔くんはメモを傍らに置き、自分を抱き締めるように小さく膝を抱えた。俺は何も出来ずに、細い身体にブランケットをかけることしかできなかった。
「怖かったね」
かたかたと震える姿に、思わず抱き締めたくなる。けれど軽率な行動は、今の朔くんには出来なかった。
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