きこえる | ナノ


8  




 気付いたときには、走っていた。意識が現実に戻ったと思ったときには、今きた道を走っていた。心臓がきりりと痛んだ。久しぶりに運動をしたからか、それとも。

「…………朔くん?」

 アンダンテを通り過ぎたあたりで、佐伯さんが歩いているのが見えた。僕の足音に驚いて振り向いたところに、構わず飛び込んだ。

「ちょっ、どうしたの」

 心臓が痛い。息が整わなくて、うまく呼吸が出来ない。汗がこぼれて、咄嗟に佐伯さんの服を掴んだ手が、がたがたと震えていた。
 ここにいてはいけない。佐伯さんを巻き込んではいけない。助けて、追いかけてくる、早く逃げなければ、僕を置いて、逃げて、行かないで。
 色んな感情がぐるぐると頭を巡った。ただ言葉は相変わらず出てこなくて、荒い息だけが口から吐き出された。とにかく逃げなければとそれだけ思って、佐伯さんの腕を引きながら、前に進もうとした。

「うん、わかった」

 ばさり、と頭から何かを被せられ、視界が暗くなった。突然のことでパニックになり、身体が強張った。途端に身体が浮いて、不安定なそれにさらにわけがわからなくなった。

「朔くん、大丈夫。大人しくしてて」

 抱き抱えられたのだとわかった。背中を撫でられて、その手の大きさに、ようやく我に返る。知っている手だった。僕に痛いことをしない、殴ったりしない、煙草を押し付けたり、耳を引っ張ったり、しない手だった。
 頭から被せられた佐伯さんの上着は、僕をすっぽり隠してくれていた。もう誰にも見つからないと思ったのに、それでも何故だか怖くて、なるべく身体を小さく縮こませた。佐伯さんの肩に顔を埋めて、広い背中に必死にしがみついた。

「もう大丈夫だからね」

 耳元にそっと囁かれた。低い声なのに、優しく、甘い響きだった。
 ど、ど、そ、そ、ら、ら、そ。ピアノの音を思い出す。
 視界は真っ暗だ。頭の中を支配する記憶も、すべてが真っ黒に塗りつぶされてしまった。星はもう、見えない。
 けれど、耳から入りこむ声だけは、ピアノの音だけは現実だった。背中や頭をゆっくり撫でる手だけは、僕をかろうじて引きとめてくれていた。
 星を思い出させてくれる、その温かさを僕は知っていた。


prev / next

[ list top ]


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -