「やっと過ごしやすい気温になってきたね」
少し前まで、夜はまだ冬の気配を残していた。最近はようやく、春の温かさを感じるくらいの気候になった。
佐伯さんは相変わらず、僕を家まで送ってくれた。そのまま食事に行くこともあったし、僕の部屋にあげることもあった。
抱き締められたあの日以来、そういうことはされていない。夢だったのかもしれないと思うくらいに、佐伯さんの態度は普通通りに戻っていた。近付いた顔も、強い香水の匂いも、夢だったのかもしれない。
それが夢なら、僕がそれを望んでいたのだろうか。現実なら、佐伯さんは一体、どんな気持ちだったのだろうか。
わからないから、ずっと知らないふりをしている。
「お疲れ様。また、来週」
短い家路が途切れて、アパートの入口についた。佐伯さんはにこりと笑って歩き出し、僕は小さく頭を下げた。
ひらひらと振られた、大きな手が目に入る。あの手が、僕の背中を撫でていた。優しく、抱き締めてくれた。
誰かに抱き締められるなんて、初めてだったのだ。
だからかもしれない。ずっと忘れられない。
アパートの階段を上がって、部屋に向かう。二階の手前から三番目、いつもの僕の領域に近付いて、足が止まった。
「…………遅ぇよ」
低い、喉でごろつく声がした。ドアの前で座り込んでいた影がゆらりと立ち上がった。蛍光灯の逆光で、その表情は見えない。足がすくんだ。
くすんだモスグリーンのモッズコートに、肩まで緩く伸びた髪、ポケットに突っ込んでいた手がぬっと飛び出して、口にくわえていた煙草を指で挟んだ。
紫煙の香りが僕まで届く。
「久しぶりだな、朔」
にやりと笑う男の顔を見て、足ががくがくと震えるのがわかる。
こつ、と足音が夜に響いた。一歩一歩、僕に近付いてくるのがわかる。僕の足はちっとも動こうとしない。はくはくと、恐怖に息が出来なくなる。
どうしてここに、なんて愚問だった。どこに行っても、逃げられないのだと思い知らされる。
「朔?」
不自然に優しい、猫撫で声が目の前まで近付いていた。煙草を指で挟んだ手が近付いて、甲で頬を撫でられた。
佐伯さんよりも背の高い、不自然なくらいに若い、僕の、父親。
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