ど、ど、そ、そ、ら、ら、そ。
ピアノなんて弾けないけれど、その音の調べは知っていた。知っている音が多彩になって、音が重なり合っていく。鍵盤の上の大きな手は、まるで踊っているようなそれだった。
きらきら星変奏曲という曲なのだと、佐伯さんは教えてくれた。
「朔くん、朔くん」
音が止まって、肩を揺すられた。ふかふかのソファに沈んでいた身体を起こす。自然と目を瞑って、そのまま半分眠っていたようだった。
「疲れてるんでしょう、帰ろう」
営業の後、佐伯さんは少しだけピアノを弾く。調子の悪かったところの修正や、指鳴らしなのだと言う。クローズ作業が終わってから、そのピアノを聴くのが最近の流れになっていた。
身体を起こそうとしても、足に力が入らない。朝起きたときの、低血圧特有のだるさに似ていた。じっと佐伯さんを見ると、困ったように笑った。
「しょうがないなぁ」
言いながら、僕の脇の下に手をいれて、身体を持ちあげてくれる。足がふらふらした。一日が終わるときは、大体こうだ。佐伯さんは僕を背負おうとするけれど、さすがにそれは断った。
事務所に戻ると、マスターの作業も終わったところだった。
「今日もお疲れ様」
「お疲れ様です」
挨拶代わりに僕が頷くと、マスターは頭を撫でてくれた。
「随分、表情が出るようになったね」
「……そう、なんですか」
「いや、まだ無表情と言ったほうが近いけれどね。ずっと一緒にいると、わかるものだよ。ね、朔くん」
自分でも表情筋をどう動かしているのかわからないので、首を傾げる。佐伯さんも、僕の表情が豊かになったと言った。
自覚はない。けれど、心が穏やかなのはなんとなく感じていた。波が凪いでいる感覚だった。
マスターも佐伯さんも、笑って僕を見守ってくれている。最初はうっとおしいくらいに思っていた過保護さも、慣れたのか受け入れたのか、今はもう素直に感じ取れる。
そうか、とやっとわかる。弱さを見せることは、弱音を吐くことは、惨めだった。可哀想なやつだと思われるのが嫌だった。けれどそれさえ受け入れて、大丈夫だと背中を撫でてくれる他人がいる。
言ったところで何も変わらない。誰も助けてくれない。そう決めつけていなかっただろうか。
結局は、自分が信じ切れなかっただけなのだ。突き放されるのが怖かっただけなのだ。
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