佐伯さんの大きな手が、僕のほうに近付いてきた。さら、と髪の先を撫でたかと思うと、後頭部に回って、頭を撫でられた。
ふ、と佐伯さんの顔が引き締まった。口は柔らかく弧を描いていたけれど、目だけが熱っぽかった。射竦められたように、僕は動けなくなった。
耳を親指で撫でられて、他人に触れられたことのない感覚にびくりと身体が跳ねた。気付いた頃には、佐伯さんの顔がぐっと近づいて、良い匂いが鼻孔をくすぐった。
「っ…………ごめん」
至近距離で聞こえた謝罪とともに、頭の大きな手が離れた。頭の中が痺れたようにぼんやりしていて、一瞬何が起きたかわからなかった。佐伯さんは僕から顔を逸らして、片手で口を押さえていた。
ようやく、自分が何をされようとしていたのか気付いた。
佐伯さんの片手から覗いた顔は、少し赤かった。いつも笑っていて、余裕があるようにしか見えないのに、そんな表情も出来るのだと気付いた。それがなんだか面白かった。
「…………朔くん」
佐伯さんがはっとしたように僕を見た。朔くん、笑ったね、と呟いて、佐伯さんも笑った。嬉しそうな、泣きそうなそれに、僕はどんな表情をしていいのかわからなくなる。
人間であることを止めようと思ったからだろうか。自分のことなのに、感情の名前がわからないのだ。
くい、と腕を引かれた。軽い力だった。俯いた佐伯さんが、少しだけ顔を赤くして僕の表情を窺っていた。僕が拒否しないのを見ると、ふわりと抱き締められた。
はぁ、と頭上で息を吐くのが聞こえた。痩躯に見えて、佐伯さんは僕と比べ物にならないくらい、身体が出来ていた。大きな手は僕の頭と背中を撫でていた。僕はただ、受け入れず否定もせず、佐伯さんの腕の中に収まっていた。胸元に額をあてて息を吸うと、香水の匂いが強くなった。
感情の名前は、よくわからない。どうして受け入れてしまったのか、どうして否定しなかったのかもわからない。僕に判別できるのは、嫌か嫌じゃないかのたった二つだけだった。
嫌じゃないと思ったから、そのままにした。
そうしたいと思ったから、僕も手を伸ばした。佐伯さんの服の裾を軽く掴むと、僕を撫でる手が止まった。
「…………もう」
よくわからない言葉を呟かれた。
ただ、嫌じゃないと思ったので、放っておいた。
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