流れで佐伯さんと一緒に『黒猫軒』を後にした。僕は特に用事もなく、本屋に立ち寄って家に帰ろうかくらいにしか考えていなかった。佐伯さんは何か用でもあるのか、家の近くでもある『アンダンテ』の方に自然と足が向かった。
「朔くん、何か用事あるの?」
首を振って否定する。
「そっかぁ。俺も、特に予定ないんだよね」
なんとなく歯切れの悪い会話だった。何か誘うわけでもなく、予定の有無を聞いて、終わり。
ちらり、と右斜め上の佐伯さんの表情を様子見た。口をきゅっと結んで、何か悩んでいるような、すっきりしない顔をしていた。
時々、佐伯さんはこういう表情を見せるようになった。言葉には出さないけれど、僕にはその原因が自分自身だということに気付いていた。僕を食事に誘ってあの一件があってから、佐伯さんは僕との距離を計りかねているのだ。
他人とどこかに行ったりすることは、どちらかと言うと苦手だった。一人の方が気楽で良いと思っていた。
けれど、どうしてか、佐伯さんの隣は心地いいのだ。
息が出来る。そう思ってしまう。
『ごめんね』
そう言いながら、僕の背中を摩ってくれた、あの日のことを思い出す。
「……朔くん?」
思わず立ち止まって、ポケットからメモ帳を取りだした。走り書きで、文字を綴る。
『うち、きますか』
メモを覗き見た佐伯さんの表情が固まった。
あんまり出過ぎたことをしただろうか。自惚れだったのかもしれない。本当は僕と一緒にいたくないかもしれない。距離を計りかねているというのは、近付きたい意味でも、離れたいという意味でも使えるのだ。
自分の思いこみだったように思えて、さっとメモを閉じようとした。
「いいの?」
ふわ、と佐伯さんが笑った。ほっと安心したような表情だった。
部屋は僕の領域だった。誰からも侵害されない、自分だけの空間だった。そこに誰か入ったことは、今までに一度もない。
外をぶらつくことだって出来るのに、自然と部屋に呼ぶ選択肢を選んでしまった。それは、僕が絆されてしまったからなのか、油断しているからなのか。
知って欲しい。知られたくないことを知ってしまった佐伯さんに、知って欲しいと、思う自分がいた。
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