「あれっ、朔くん」
かろん、とベルが鳴って喫茶店のドアが開いた。名前を呼んだのは、ぽかんとした顔の佐伯さんだった。
「よう」
「お疲れ様です、永末さん」
「朔との楽しい時間を邪魔すんな。帰れ」
「ひっどい、俺客なのに」
軽口を叩くのはいつものことだった。やりとりをしながら佐伯さんは、さも当然のように僕の隣に座った。
あの日、僕は混乱していた。佐伯さんに枕を投げつけて帰らせ、静かになった部屋でただ一人、昔のことを思い出していた。いつの間にか混乱して、自分が何をしているのかわからなくなった。気付いた頃には佐伯さんの声が聞こえていた。
朔くんは朔くんだよ、と言った優しい声が、耳に溶けるように入ってきた。佐伯さんの声はピアノと似ていた。甘く、優しく、溶けていく。
特別異性に興味があるわけではなかったけれど、同性に恋愛感情があるかというと別だった。けれど、佐伯さんに抱き締められることは、嫌だとは思わなかった。
この人なら、信じよう。冬のあの日、マスターに対して思った気持ちと一緒だった。
「嫌なことされてない?大丈夫?」
「誰のこと言ってんだ」
「気をつけてね、この人男もイケる人だから」
えっ、と顔を上げると、意味ありげに微笑まれた。そのまま違う客の対応に行ってしまう。
「……朔くん、前よりも表情豊かになったね」
豊か。佐伯さんは時々こうやって、恥ずかしいことを言ってくる。本人にそんなつもりがないだけ、性質が悪い。
表情の作り方なんて忘れた。どうやって笑っていたのか、わからなかった。ただ涙だけは、勝手に出てくるから仕方ない。
「戸惑ってるでしょう」
「…………」
そんなに、わかりやすいだろうか。見透かされるのが嫌で、ぷい、と顔を背けた。
「えっ、怒った?ごめんね、朔くん」
焦ったように、ゆすゆすと肩を揺すってくる。おかしくて、僕はわざと顔を背けたままでいる。
どうでもいいこんなやり取りさえ、最近は楽しいなんて思えてしまう。
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