きこえる | ナノ


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「えっ、アンダンテのキッチンって君なの」

 佐伯さんに連れて行ってもらった喫茶店『黒猫軒』の店主、永末さんが声を上げた。僕はカウンターに座ってカップを両手で包んだまま、こくりと頷いた。
 あれから佐伯さんと何度かこの店に訪れ、休日や仕事終わりにふらりと一人でやってくることもあった。最初は体調崩して店に迷惑をかけたことを謝りに来たのだが、永末さんの気さくさと店の雰囲気の良さに、すっかり常連になってしまった。

「俺、行ったことあるよ。そっかぁ、朔だったの」

 永末さんは僕が声が出ないことをすぐに受け入れた。持った社交性で、僕のことを呼び捨てで呼ぶようになるのに、そう時間はかからなかった。
 不思議な人だ。

「今日、颯太は?」

 問われて、手元のメモにペンを走らせた。
 最近になって、僕はメモを持ち歩くようになった。きっかけは、佐伯さんだった。

『これ、あげる』

 渡されたのは、こげ茶色のシックな表紙をした片手サイズのメモ帳と、メモのリングに引っ掛けられた、小さなボールペンだった。

『何か言いたいこととか、伝えたいことがあったら、書いてよ』

 メモの背面、固い台紙には丁寧に『有隅朔』と名前が書かれていた。ちょっと右肩上がりの字は、佐伯さんのものだろう。

『打ち合わせ』

 メモに走り書きで示すと、永末さんが覗きこんできた。

「へぇ。あいつ、結構評判いいんだってな。俺も行かなくちゃな」

 永末さんは良い人だけれど、髪は長めで一つに結んでいて、耳にはピアスがたくさんついている。黙っていたら、ホストみたいだ。

「おい、ピアノなんて似合わないって思っただろ」

 顔に出ていただろうか。思わず頬を触ると、永末さんは笑った。
 メモにぐるぐると絵を描くと、それを見てさらに笑った。

「拗ねんなって。嘘だよ」

 永末さんは佐伯さんと見た目も雰囲気も全然違うのに、優しさだけは一緒だった。


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