けれど、理性と感情は相反していた。煙草の匂いはぐるぐると、僕の記憶を呼び覚ました。
その細い煙草の先についている熱の熱さを、僕は知っている。腰に残った傷痕がずきずきと痛むようだった。
ヘビースモーカーだった父は、苛立つと必ず煙草を吸った。僕を視界にいれると、それを躊躇うことなく押しつけた。
「……朔くん?」
思わず立ち上がった。店の端にあるお手洗いの表示を指差した。
「トイレ?」
頷き、足を動かした。早くそこから逃げたかった。半ば駆け込むようになってしまったけれど、気にする余裕もなかった。個室が二つあるうちの一つに駆け込むと、足の力が抜けてずるずると座り込んだ。張り詰めていたものが緩む感覚がして、咄嗟に便器に顔を突っ伏した。
「げほっ、う…………っ」
ぱたぱた、と胃液が落ちる音がした。食事をしていないからか、吐瀉物はほとんどなかった。
気持ちが悪かった。寒くはないのに、震えが止まらなかった。ただ何かに追われているようで、心が落ち着かなく、怖かった。
逃げ切ったと思ったのに、今も尚追いかけてくる。その恐ろしさに絶望した。どこまで遠くに行っても、隠れてしまっても、逃げられることはないのだ。
「…………朔くん?」
「っ!」
突然声がして、息を詰めた。佐伯さんが様子を見にきたのだとわかった。それほど僕は、挙動がおかしく見えただろうか。
知られたくなかった。憐れみの目を向けられることも嫌だった。ただ僕の過去は、思い出したくもなく、恥ずかしいものだった。
けれど、吐き気は収まらなかった。息を詰めたせいで一気に胃が痙攣し、頭の中が真っ白になった。
「げほげほっ、けほっ……」
「朔くん!」
背後のドアが開いて、明かりが差し込んだ。そういえば、鍵をしていなかった気がする。そんな余裕すらなかった。
見ないでくれ、と、必死に首を振った。頭がガンガンと痛かった。生理的な涙がぼろぼろ溢れて、泣きながら嘔吐を止めようと必死だった。
途端、背中をゆっくりと撫でる大きな手があった。
「我慢しなくていいから、全部吐いて」
撫でられるたびに込み上げてくる。けれど僕は必死に首を振った。佐伯さんは背後から手を伸ばし、僕の鳩尾あたりをぐっと抑えた。
「っぐ、げほっ、げほげほっ」
耐えきれず、吐くしかなかった。
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