松葉杖が必要とならないくらい、足の怪我が治ってきた頃だった。
「今日の帰り、飯食いにいかない?明日休みだし」
相変わらず朝から僕を迎えにきた、佐伯さんからの誘いだった。もう背負われなくても良いのに、佐伯さんは「いいからいいから」と僕を背中に乗せようとした。首を振って断ると、せめて、と言わんばかりに一緒に出勤するようになった。どれだけお人好しなのだろうか。
食事の誘い自体は、どうでも良かった。休みと言っても僕には同居する親も、遊ぶ友人もいないから、普段通り家にいて本を読んだり映画を観たりするだけだった。
ただ、僕は食事が出来ない。一緒に行ったところで、気を使わせてしまうし、僕も気を使う。
僕の表情を見かねてか、佐伯さんが一言付け加えた。
「おススメのお店あるんだ。食事処って言うより、喫茶店みたいなところだから、飲み物も美味しいよ。どう?」
暗に「飲み物だけでも構わない」と言う。こういうところが苦手なのだ。優しさが、僕にとっては痛い。
断る理由も思いつかず、食べて帰るだけならと、小さく頷いた。佐伯さんはほっとした表情で、笑った。
営業は、ジャズピアノを導入した初日よりは若干引いたものの、客足は以前と比べて伸びていた。このあたりで生演奏をしている店は珍しく、新規の客が常連となっていく傾向にあった。雑誌の取材も今度あると言う。
佐伯さんが来てから、店の雰囲気は変わった。マスターと僕の関係はあまり変わってはいないけれど、随分と会話をする場面が増えた。
「よし、行こっか」
着替え終わったのを見計らって、佐伯さんは事務所のドアを開けた。
こうして誰かと店以外の外に出かけようと思うのも、僕に何か変化が起きた証拠なのかもしれない。
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