きこえる | ナノ


13  




 顔なじみの看護士に車椅子を押してもらい、外の受付に出た。覚束ない足取りで椅子に移動すると、予想以上に片足が使えない不便さに驚いた。治るまでしばらく、生活に支障が出そうだった。
 看護士が診察室の中に戻ってから、じっと床を見ていた。名前を呼ばれる患者、付添い人、会計をする人、歩く人、色んな人が行き交う足元を、ただじっと見ていた。
 じわりと滲むように思い出されるのは、小さな部屋だった。そこはいつだって薄暗く、煙草の匂いが漂っていた。夜には決まって罵声が飛び交った。僕はただじっと、朝が来るのを待つことしかできなかった。
 低い声は、よく響く。もう二度とそんな声を浴びるまいと、誰の感情を高ぶらせないように無害でいるつもりだった。何も反応を示さなければ、表情を変えなければ、喋らなければいいと思っていた。けれど、僕は失敗した。
 綺麗なピアノを弾くあの人でさえ、心の中ではぐるぐると汚い感情が巡っている。
 信じるんじゃなかった。いつだって自分は誰かのはけ口になるのだと思い知らされた。
 背中に残った火傷の痕が、じくりと痛んだ気がした。

「朔くん!」

 名前を呼ばれた。顔は上げられなかった。音は耳に入っているのに、ぼんやりとそれはすり抜けていった。身体を動かす方法が、わからなくなっていた。

「ごめんね」

 目の前に大きな靴が近付いた。しゃがみ込んだ誰かが、僕の顔を覗き込んでいた。
 眉を下げた表情。それが何という感情を持っているのか、僕にはもうわからない。
 無意識のうちに膝の上で握っていた拳がすっぽり包まれた。大きな温かい手は、あの時鍵盤の上で踊った、あの人の手だった。

「怪我させて、ごめん。怒鳴って、ごめん。朔くんが階段から落ちて、心配で、俺、冷静じゃなかった」
「…………?」

 心配、の意味が一瞬わからなかった。
 そんな価値が自分の中にあったとは思えなかった。

「焦って、大きい声になっちゃって。びっくりしたよね。怖い思いさせて、ごめん。俺、怒ってないから」

 柔らかい声は、あの時のものと同じと思えないくらい優しかった。
 つい、と視線を上げると、目が合った。一瞬驚いた顔が、ふわりと微笑む。

「帰ろう」

 そんなことを言ってくれる人は、今までにいなかった。
 驚きか呆れか、そのどちらか。
 きっと僕は戸惑っていたのだと思う。大きな手の中で握っていた拳を緩めると、甲を撫でられた。ゴツゴツとした手に触れたくて、少しだけ指を絡めた。
 ピアノを弾く佐伯さんの手は、そっと握り返してくれた。僕を気遣うような優しい手つきに、何故だか泣きたくなった。
 優しさの受け取り方を、僕は知らない。

「…………」

 知らないけれど、とりあえず。帰らなければと思う。
 頷くと、佐伯さんはほっとしたように笑った。


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