「こんなものがお礼で悪いけど………って、え、ちょっ」
鍵盤から指を離した佐伯さんが、慌てて元の席に戻ってくる。
「えっ、ごめん、具合悪い?我慢させちゃった?」
僕の顔をじっと見て、驚いた表情を見せている。不思議に思いながら、遅れて気付いた。ぐい、と手の甲で頬を拭うと、濡れた感触がした。
泣いていた。自分でも知らないうちに、涙が流れていた。自分自身でも驚いて、戸惑って、見られたくなくて、席を立った。
弱さを見せてはいけない。防衛本能が、頭の中で警報を鳴らしている。
「待って」
くんっ、と後ろ手に右手首を引かれた。ぽろ、と涙が零れるのがわかって、左手で拭った。我慢しようとすればするほど、それは止まろうとしなかった。
「何で泣いてるの」
向かい合わせにさせられ、頭上から見つめられているのがわかる。顔は上げられなかった。答える声もなかった。逃げ出したかったのに、掴まれた右手はびくりともしなかった。
静かになった店内に、僕の鼻を啜る音だけが響いた。惨めだった。
「具合悪い?」
またマスターを呼ばれたり、家まで送られたくない。ぶんぶん、と首を横に振った。
「俺、何か気に障ることした?」
肯定すれば、ひたすら謝られそうだ。否定を示した。
「…………」
突然、良い匂いが近付いた。
頭を引き寄せられた。抱き締められているのとは少し違っていた。額に佐伯さんの肩を感じて、足元から視線を動かせなかった。
「ごめん、なんか、泣かせたみたいで」
「…………」
「ごめんね」
さら、と髪を撫でられた。
怖いと思った。優しさは、とても怖いものだった。慣れていない優しさを向けられたら、どうしていいのかわからなかった。
「っ…………」
どん、と佐伯さんの身体を突き放した。油断していたのか、僕と比べ物にならない体格を持つ佐伯さんの身体が揺れて、その隙に逃げた。事務所で精算をしていたマスターに挨拶をして、サルンを脱ぎ捨てて帰った。
ピアノの音が耳にこびりついている。佐伯さんは、偽善者だ。でも、優しい。
近くにいたら、思い出してしまう。縋りそうになってしまう。決して佐伯さんは、そんなことを望んでいない。
僕はもう、人間には戻りたくなかった。
prev /
next