人は死にたいと希う


わたしには、好きな人がいた。
その人はとても遠い、一生会えるはずのない人だったけど、わたしは目の前にいる人物を愛すように、その人を好いていた。
初恋なんて淡いものでは無い。
人生何度目かは数えるつもりも無いのでわからないが、とにかくわたしはその人のことが、好きだった。
会えるわけもない。その人と結ばれるはずもない。想いを伝えることも出来ない。
そう考えて虚しいような切ないような気持ちになる自分を、気持ち悪いなあと思わなくはなかったけれど、それでもこの想いは止められなかった。

テレビに映る、自分の意のままに動く、その人。
カタカタとコントローラーのボタンを押す音が響く中で、わたしはその人の声が聞こえる度に、ああ、やっぱり好きだ、そう思うのだ。



そんなわたしが、ひょんなことで異世界トリップという体験をした。
何も持たず、無知なわたしがこのままここで生き延びられるほど甘い世界ではない。
わたしは好きな人に会えるかもしれないなどという考えを浮かべる間もなく、自分に近付いてくる死の足音に恐怖した。
飢え死にか、誰かに襲われるか、何かに巻き込まれるか。ほんの小さな怪我が原因でも、わたしは死んでしまうかもしれない。
森の中、ヒールの高いサンダルを履いていたわたしの足は、既に擦り傷だらけでぼろぼろだった。
買ったばかりのニットも、あちこちほつれて、もう外では着られないだろう。

このまま何も出来ず死んでいくのは嫌だった。
せめて、好きな人を一目見たい。会話が出来なくても、その場で斬り捨てられてもいい。彼をこの両目に焼き付けたかった。彼の声を、直接この耳に通したかった。
だけど、そう思っても、自分が今どこにいるのかすらわたしには分からない。
生きる術なんてわたしは知らない。
ゆるく生きていても、ご飯はスーパーやコンビニに行けば食べられたし、怪我をすれば病院にでも行けば良かった。職が無ければバイトを探せばいいし、迷子になったのなら携帯で地図を見ればよかった。
ここでは、そのどれもが、使えない。

そんなわたしを見つけて、拾ってくれた人がいた。
森の中、ぽかりと木々の隙間から日が差し込んでいる場所でへたりこんでいたわたしを、その人は息をのむような表情で見つけてくれた。
差し出される手を掴むのは嫌だった。嫌だったけど、それ以外にわたしが生き延びる手は見つからなかった。

だからわたしは、手を取った。


それからの生活は、天国のようで、地獄のようだった。
わたしは彼の手に引かれるまま、彼の住む場所へと連れて行かれた。
彼はわたしを愛でた。大切に、大切に、壊れ物を扱うかのように触れて、愛を囁いた。
周囲の人たちもわたしの存在を歓迎し、また、女っ気がなかった彼にやっと嫁ができた、と喜んだ。
わたしの言うことなら聞いてくれるだろう、わたしの作った物ならすべて食べてくれるだろう、わたしと共になら休んでくれるだろう。
その言葉を飽きる程聞きながら、わたしは彼のなす事に口を挟み、彼のために料理をし、彼と共に眠りについた。

彼は従順なわたしを面白いほどに愛してくれた。

外に出るなと言われれば部屋に閉じこもる。
傍に来いと言われれば彼の隣に座る。
愛を囁けと言われればゆるく口を開く。
まるでわたしは、人形のようだった。否、自ら人形になったのだ。
生きるため、わたしは自分の感情を押し殺し、その人に取り入ったのだ。
それに気付いていたとしても、彼は、自分から離れないわたしを愛していた。


なまえ様、なまえ様と、彼の部下にあたる人たちはわたしを呼ぶ。
彼の寵愛を一身に受けている人間なのだ。それはそれは、大切に扱われた。

なまえと、彼は愛しげにわたしの名前を呼ぶ。
わたしに触れる手も、わたしを見つめる瞳も、わたしの名を呼ぶ声音も、すべてが愛しさに満ちあふれていた。

――と、わたしは彼の名前を呼ぶ。
彼は嬉しそうに顔を緩めた。その表情をわたし以外の人間が見ることは永久に叶わないだろうと思う。


だからどうしたと、わたしは声高に言いたかった。

わたしはこの人を愛してはいない。
わたしの好きな人は昔も今も、ここから遠く、けれど行けない距離ではない場所で生きている人だ。
そう、会おうと思えば、難しいが、会えるのだ。
その人をこの目に焼き付けて、声を直接耳に通して。ともすればその人に触れることだって、絶対に無理だとは言い切れない。

だけどわたしは、それは不可能だと知っていた。

自分で言うのも馬鹿らしいが、わたしは籠の鳥だ。飛ぶための羽根なんて最初から持ってはいないが。
彼に黙りこの場を抜け出せば、わたしは殺されるだろう。
彼に外へ行きたいと頼んだところで、彼はわたしを手放さないだろう。

だからそれは、無理な話だった。
好きな人に会うことは、やはり出来ないのだ。
元より会えるはずのない人間なのだから、きっと、そういう運命なのだと。
わたしはとうの昔に、諦めていた。


「なまえ、」


ああ、また彼がわたしの名を呼んでいる。
愛しげに、優しげに、その声音に、狂気を孕ませて。


「何ですか、元就さん」


やわく微笑むわたしの頬を撫でて、彼は満足そうに笑った。
その手が、わたしの背へと回る。首筋に唇を寄せられる。
わたしは抵抗一つせず、ただじわりと心の中で滲む水滴の感覚に、目を閉じた。


わたしは、生きたい。
生きてなにをするというわけでもないが、生きたくて、死にたくなくて、たまらないのだ。
せめて死ぬのなら、静かに、眠るように死んでいきたい。
だからわたしは彼の望む感情だけを遺して、死んだのだ。彼に愛を囁かれた、その日に。

生きるために、死んだんだ。

そんなわたしが、好きな人に、会えるはずもなかった。
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