欲に塗れた水たまり


「おはよう、主」
「ヒェッ……ウワッ……無理……」

そして顔を背けながら、ぼそぼそと呟く「オハヨゴザイマス……」の言葉。長曽祢虎徹はそんな主の姿に苦笑して、ほんの少し肩を落として、彼女の横を通り過ぎた。

どうやらおれは、主に嫌われているらしい。
長曽祢がそうだと思ったのはこの本丸に顕現して一月程経った頃で、以降もそれとなく挨拶をしたり、遠征先から土産を持って帰ったりしてみたものの、ああ嫌われているんだろうなという感覚を拭うには至らなかった。
主は小柄な女だ。長曽祢の胸下にようやく頭が届くかどうかといった背丈で、目を合わせるには長曽祢が屈むか、主がうんと見上げるかしなくてはならない。横幅にも大差があり、長曽祢の身体ですっぽりと隠してしまえるほどだ。
この体格差であれば、怯えられるのも仕方がないか、と長曽祢は一応の納得をしていた。寂しいというか、哀しいというか、なんとも言い難いむなしさのようなものはあったけれど。

そんな長曽祢を見送る主――審神者の元に、堀川国広が歩み寄る。廊下でぼんやりと立ちすくんだままの審神者。朝の挨拶をしながらとんと軽く肩を叩き、窘めるような声を出す。

「主さん、顔がとろけてますよ」
「ハッ……いやこれは、つい……」
「いい加減慣れません? 長曽祢さんがここに来てから、もう半年が経とうとしてるんですよ。ていうかあの対応は普通に失礼だと思う」
「わかってるんだけどお……ハァ……後ろ姿までかっこいい……」

両頬をおさえ、緩みまくった表情をどうにかしようとする審神者。しかしどうにもならない様子を眺め、堀川はため息を吐いた。
そう、この審神者、長曽祢に怯えているだとか長曽祢を嫌っているだとかだなんて、とんでもない。彼女は長曽祢虎徹が大好きだった。朝の挨拶をされただけでとろけた顔になってしまうくらい、大好きだった。

「朝一で会えるなんて今日はついてる……ハァ〜今日も素敵な脇腹……腰……胸板……二十四時間三百六十五日撫で回したい……今日長曽祢さん出陣にしといてよかった、朝から良いものを見れた……。内番着の、今から銭湯に行くおっちゃんかな? 感も最高だけど長曽祢さんはやっぱり出陣衣装だよ……。あの逆三角形ライン、あまりにも至高の極みじゃない……? 神が作りたもうた奇跡……結婚したさしかない……もしくはヤりたい……」

それもまあ、病的と言っていいほどに。

「はいはい、朝から煩悩だだ漏れにしないで。朝餉は済ませたんですか?」
「うん、部屋で軽く。歯磨きして、ラジオ体操して、朝シャンしたら出陣ね」
「一時間後くらいですね、みんなに伝えておきます」
「よろよろ〜」

じゃあまた後でねーと去って行く審神者を見送り、堀川は再びため息を落とす。
いささか軽すぎるところはあれど、普段の彼女は良い審神者、良い主なのだ。五十振を越す刀剣男士がいる本丸で、責任者としての勤めをよく果たしている。
……のだが、約半年前に長曽祢虎徹を顕現してからは、こうだ。それまでは誰か一振に執着することもなく、二十歳を過ぎたばかりの女性なのに色恋にも目を向けず、よい主であったのに。
いや、審神者の生活に潤いや彩りが出ることは良いことだ。誰が相手であっても、堀川は審神者の恋路を邪魔するつもりもない。
でも、この方向性はいささか、いや随分と、想定外だった。

長曽祢を顕現したその日、主が開口一番呟いたのは「は……?」という謎の半ギレ疑問符だった。
後日、「え、いややばない? なにあれ? やばない? やばいよね?」と語彙が消滅しまくった疑問を向けられ、堀川は困惑した。
数日後、「どう考えてもえろい。無理。無理しか言いようがない。なにあれえろすぎない? 脇腹撫で回したい。自分が性的な目で見られてるなんてこといっこも理解してないままセクハラされてる状況に困惑してもらいたい」と性癖を暴露され、堀川は一瞬刀解を申し出ようかと思った。
一月後、「ながそねさんがえろすぎて顔見るだけで死にそう、無理、これはもしかして恋なのでは。長曽祢さんの身体を思い浮かべるだけで動悸息切れが起きる。死ぬかもしれない」と真剣な顔で相談された。そんな性欲まみれの恋があってたまるかと思った。

そして現在、審神者は長曽祢と向き合っても「無理……」か「やばい……」しか言えないぽんこつと化しており、そんな状況なもんだから長曽祢は「主に嫌われている……」と認識してしまっている。
出陣指示なんかは普通に出来てるのに、日常会話となると何故こうなってしまうのか。
堀川は片手で顔を覆った。ため息は終わりそうにない。


 *


「具体的に、主さんは長曽祢さんとどうなりたいんですか?」

ある日の夜。審神者の住居である離れの居間に集まるのは、堀川、加州、大和守の三振、そして審神者である。全員がこたつに入り、こたつ机の上には酒とつまみが置かれている。審神者の正面に置かれているのは柚子茶だが。
堀川の問いにまず反応したのは加州だった。大和守は黙々と酒を飲み続けている。

「あ、それ俺も聞きたい。主、結婚したいーとかはしょっちゅう言ってるけど、特に行動はしないもんね」
「しないんじゃなくて出来ないんでしょ」

一言だけツッコミを入れ、大和守は再び酒をあおる。
当の審神者は柚子茶をちびちびすすりつつ、うーん、と首を傾げた。別に恥ずかしがっているわけではない。一人だけシラフの状況も気にしていない。ただ、いざ長曽祢とどうなりたいかを訊かれると、いまいち答えがまとまらなかった。

「強いて言うなら、セックスしないと出られない部屋とかに、一緒に入りたい……?」
「安直」
「素直」

何故ならこの審神者、長曽祢を性的な目でしか見ていない。

「結婚したい〜とかヤりたい〜もまあ本気っちゃあ本気だし目の前にポンと長曽祢虎徹と結婚出来る券とか出されたらほいほいゲットするけど、実際審神者と刀剣男士の結婚ってどうなの? 派だしなあ。付喪神とヤるのも霊力への影響が云々でこわいし。具体的にどうなりたいか……? 軽率なセクハラを許される関係にはなりたいかな……?」
「これ長曽祢さん逃げた方がいいやつなんじゃないの」
「僕も今そう思ったところ」

酒をあおりつつ、大和守はちらと審神者を見やる。
このところの審神者は完全にぽんこつのそれだが、あれでどうして、一応はちゃんとした審神者なのだ。刀剣男士との婚姻、性的接触のリスクを重々理解している。だからどれだけ長曽祢を性的な目で見ていても、行動しない。出来ない。
審神者のそれは、リスクを無視してでも欲しいと思えるほどの感情ではないのだ。
見ているだけなら何も起こりはしない。長曽祢に、自分は嫌われていると思わせていれば、万一も起きはしない。これを計算でやっているのなら末恐ろしい主だが、実際長曽祢を前にした審神者の「無理……」は本気なのでやはりぽんこつだ。
つまるところ、この審神者は小心者なのである。危険性を無視出来ない、だから踏み込もうとしない。嫌われたくない、だから好意を伝えない。汚いところを見たくない、だから表面だけを見つめる。

堀川の言う「具体的にどうなりたいか」なんて未来が、この審神者には見えるはずもないのだ。だって審神者は「どうにもなりたくない」のだから。

「でも長曽祢さんのこと好きなんでしょ? 好きなら、付き合いたいとかデートしたいとか、それこそ手を繋ぎたいくらいでも思うもんなんじゃない?」
「えぇ……手を繋ぐとか無理……絶対やだ……」
「ついさっきセックスしないと出られない部屋に入りたいとか言ってたくせに……」
「ヤるのと手を繋ぐのは恥ずかしいのベクトルが違うじゃん」

結局どれだけ話をしても、堀川や加州が持っていきたい方向に結論が出るなんてことは、起こり得ない。
なんだかんだ言ってこの二振は、審神者と長曽祢にうまくいって欲しいと思っている。審神者が「普通の女」らしくなるのは、長曽祢の前でだけなのだ。あれを普通の女と言っていいとは思わないが、大和守の心証はさておいて。

審神者が長曽祢に抱くものが恋情だと、大和守は思わない。審神者自身も思っていない。
だから話は進まないし、結論だって出やしない。それでいいのだ、審神者にとっては。所詮これは、戦争の真っ只中にふわりと滲んだ、ほんのちょっとの潤いでしかないのだし。
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