朝の空に告げる


知人である秀吉殿の妹は、ワシより二つ上のおっとりとした女性だった。
目鼻立ちの整った容姿をしているが、表情の所為かその性格の所為か、近寄りがたさは感じない。朝方のひんやりとした、けれど柔らかく包み込むような空気を思わせる女性で、あの秀吉殿の妹だとは正直信じられなかった。

彼女と出逢ったのはワシが中学生の時で、紆余曲折を経て、ワシが大学生となってからつきあい始めた。つまり今、ワシと彼女は恋人同士だ。
その紆余曲折は半兵衛殿や三成が大きく関わってくるのだが、割愛しておく。


 *


ワシが住むアパートから自転車で十分ほどかかる場所に、彼女の住むマンションがある。
高校卒業時には、大学へは実家から通う予定だったそうなのだが、彼女の中でなにか心境の変化があったのか、秀吉殿や三成の反対を押し切るようにして彼女は一人暮らしを始めた。
ワシとしてはもちろんありがたい事なのだが、その後半年ほどは三成の機嫌が異様に悪かった。


二人の予定が合えば、どちらかの家でまったりと過ごすことが多い。
外に出るのも勿論良いが、彼女は家で静かな時間を感じるのが好きだった。
空気を共有する、と言うのだろうか。そこにワシと彼女がいる、という事実が彼女を安心させるのだろう。ワシも、ゆったりとした時間が流れるこの空間がとても愛おしかった。

「……眠いの?家康くん」

熟読するわけではなく雑誌を流し読みしていた彼女の膝へ、ごろりと寝転がって頭を載せる。
雑誌を閉じ、ワシの耳の後ろ辺りを撫でながら微笑んだ彼女の言葉に、くすりと口角が上がった。違うと解っていて問いかける彼女の、この声が好きだった。

「ああ、今日は暖かいからかな」
「そうだね。晴れてるし、湿気もないし」

だからワシも、彼女の言葉に乗っかるようにして言葉を紡ぐ。
耳の後ろ辺りを撫でる手は、くすぐるような動きへと変わっていた。ゆるく目を伏せ、強くもなく弱くもない感触を享受する。
彼女の指先は柔らかく、あたたかい。

「家康くんは甘えただね」

彼女の腹に顔を埋めるようにして身体の向きを変えれば、頭上からくすくすと笑い声が降ってきた。
ただひたすらに優しいだけの声の中に、妙な甘美さがあって、なんとも言えない気持ちが胸の辺りに染みわたる。勿論、嫌では無い。

こうして彼女の腹に顔を埋めていると、まるで母親の胎内に還ったかのような気持ちになった。
ただただ温かく、絶対的な安心感のある、しかし閉鎖された場所。此処にしか己の居場所は無いのだと思わされる、離れがたい場所。
彼女からは柔軟剤だと思われる花の香りが微かにして、それを吸い込むように深く呼吸をした。肺いっぱいに彼女の匂いを溜め込んで、吐き出すのが勿体ない気持ちになりながら、そうっと気管を震わせる。腹がへこむ。
彼女の腹筋も、ぴくりと一度だけ震えた。

「もう、匂いかがないの」

優しくワシを撫でる手が、ついと耳たぶを引っ張った。「すまない、思わず」と空笑う。「なまえからは良い匂いがするんだ」と続ければ、恥ずかしかったのかまた耳たぶを摘まれた。
目線を上げる。存外、彼女は優しく微笑んでいた。

仕方のない子だと言わんばかりの包み込むような笑顔は、ワシには浮かべられないものだった。
そうして実感する、いつものことだ。彼女はワシより二つも上で、二つしか変わらないのだけれど、その差は大きく決して縮まることはない。彼女が得たワシより二年分多い経験は、永遠にワシが得られないものだと。
それが妙にわびしい気持ちにさせられて、彼女の腹に鼻先を擦りつけた。

「家康くん?」

柔らかな声が降ってくる。雨のように、舞い落ちる花弁のように。

「なまえ、」
「なあに?」
「……ワシは子供だなあ」

ほんの僅か悩んで、彼女は頷いた。
否定して欲しかったような気もしたが、胸にはじんわりと温かなものが広がる。

「私は、そんな家康くんが好きだよ」
「ワシも、そう言ってくれるなまえが好きだよ」

彼女の指先がワシの瞼を撫でる。おやすみ、と囁くようなそれに従うようにして、瞼をおろした。


 *


はじめて彼女と出会ったとき、ワシは彼女が秀吉殿の妹だとは到底信じられなかった。
おっとりとした仕草も、柔らかいだとか甘いだとかいう表現がぴったりだろう表情も、一般女性より低い背丈も、秀吉殿と同じ豊臣の血が流れているとは思えなかった。

けれど彼女と短くはない年月を過ごし、こうして互いの特別となってみれば、よくわかる。
彼女は間違いなく豊臣の人間で、そして、秀吉殿の妹なのだと。

彼女は、何がその人を弱める毒なのかを知っている。
秀吉殿は今でも愛は人を弱くする毒だと言うが、人を弱めるものはきっと愛以外にもたくさんあって、それを彼女はよく理解していた。ワシが何をもって弱くなってしまうのかを、知っていた。
勿論ワシも、自分の弱点とでも言うべきそれが何なのかは知っていて、だからそこを突かれたところでどうってことも無いと思っていたのだが、ワシと同じくらい……否、二年長く生きている分彼女の方がずっと、狡猾だった。
狡猾というと語弊があるが、それが一番近しい言葉に思えた。


柔らかく、おっとりとしていて、優しい彼女を、三成はいつだったかに「私が永劫お守りすべき方だ」と言っていた。「なまえ様をお守りするのが私の生き甲斐なのだ」と言っていた。
その頃にはワシも、確かに彼女には守ってくれる人間がいなければいけないのだろうと思っていた。いつか誰かに騙されて、ころっと消えてしまいそうな存在に見えていた。


「おやすみなさい、家康くん」


彼女の掌が、ワシの両眼を覆う。

彼女はよく知っていた。何が人を弱くするのかを。
だからこそ彼女はとても生きるのが上手で、ワシは、そんな彼女が好きだった。
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