水に澄む魚 その人は純粋だった。 とても、とても純粋で、澄みきっていて、透明な水のようだった。 綺麗すぎる水の中で、魚は生きることが出来ないらしい。彼はつまり、そういうことだった。そういう、人だった。 純粋だとか無邪気だとか、そういう言葉はだいたい、褒め言葉として用いられると思う。 純粋。まじりけのないこと。邪念や私欲がないこと。気持ちに打算や駆け引きがないこと。ひたむきなこと。一途なこと。 無邪気。素直で悪気がないこと。いつわりや作為がないこと。あどけなく、かわいらしいこと。 なるほどどうして、それらの言葉はほとんど正確に、彼そのものを言い表していた。 ただ一途にひとりの人だけを想い、慕い、己のことは一切省みない。 優秀な頭脳を持っている割に人を貶めるだとか嵌めるだとか、そういったことは不得手としていて、嘘を嫌い、憎み、ひたすらに真っ直ぐ、ただひとりの人だけを見ている。その背だけを、まるですり込まれた雛のように、追っている。 純粋であることは、決して、良いことだとは限らないのだと。 私は、彼の神様が消えたときに、悟った。 * 世の中には、憎まれっ子世に憚る、という言葉がある。 人から憎まれるような人こそ世間に幅をきかせている、みたいな意味だ。雑草はすぐ伸びるし増える。そういうことである。 適度に嘘を吐き、他者を騙して陥れ、自分の地位を確固たるものにしていく。 そういう人は生きるのがとても上手いと思う。度を過ぎればそれは己をも貶めることになりかねないけれど、正しく適当であれば、なおのこと。 例えて言うのならば、毛利元就なんてその最たるものだろうと思う。 彼は己にも周囲にも嘘を吐くのがうまい。時折そのプライドの高さゆえに生きづらそうにはしているが、それでも彼は己のしたいように生きるのが上手に思えた。 特に、己の妨げとなるものを排除するのが得意に見える。自分が守ると決めたもの、欲したものをきちんとその掌の中におさめ、それを邪魔するものは容赦なく切り捨て、また、己の下に就いている人々を使役することにも特化している。 あれは優秀な人間だと、私は思う。どこの時代でも、どの世界でも、あの人はそれなりの地位を築き、己の生き易いように生きるだろう。 * 話を戻す。私が溜息を押し殺しながら見つめるのは、石田三成という男だった。 前述の"その人"とやらが彼である。 石田三成は、純粋という言葉がそのまま人の形を得たような、そんな存在だ。 数度繰り返した人生の中で何度か目にした彼は、己で己を殺しているかのような、そんな生き方ばかりをしていた。訂正、損な生き方ばかりを、していた。 周囲だけでなく、自分自身に嘘を吐くことすら許さない。一度懐に入れた人間のみに身を寄せ、執着し、依存する。それ以外は何もいらないのだろう、彼の持ち物はどの時代でも異様なほどに少なかった。 石田三成という人間が持つ財産は、一瞬視界に入れただけで数えることが出来てしまうほどに、少ないのだ。 一度だけ、私は彼の持つ財産のひとつになったことがある。 あの時の彼は私が知り得る中で最も酷く、最もつらい境遇にあり、生き方をしていた。 生ける屍、なんて比喩表現があるが、その言葉があんなにも似合う人間もそうそういないだろうというくらいに、彼にはその言葉がぴったりと一致していた。 あれは幽鬼だ。幽かに生きてはいる、鬼だった。 石田三成はある男を神のように崇めていて、それを喪った時に、すべてを失った。 私としては、それでも彼の周りには溢れてはいないにしろ人がいたのだから、すべてを失ってなどいないと思えたのだけれど。それはあくまで私の客観的感想でしかなく、彼の主観で言えば、やはりすべてを失ったのだろう。 神様を奪ったのが、少なからず友だと思っていた人間だったのも、原因のひとつかもしれない。 その時の私は、彼が崇める神の妹だった。神の妹も、また神だ。神の血をひいているのだから。 石田三成は彼の神様の代替品として、私に執着した。先の言葉で私は私自身を「彼の財産のひとつ」と称したが、文字通り、私は彼のおもちゃとなったのである。お人形と言い換えてもいい。意味は変わらない。 私は彼のお人形遊びに興じることにした。 生きていることが不思議なくらいに、生きるのが下手なこの男が、どれだけの間この代替品に執着していられるのか。それが純粋に、気になったからだ。 結局のところ、彼は神様の仇を討つこともなく、お人形遊びが所詮遊びにしか過ぎないのだという事にも気が付かず、あっさりと死に絶えた。 その時の安堵を、私は覚えている。 これでこの人は、石田三成は、澄みきって生きづらい水の中から抜け出せたのだと思ったからだ。 輪廻転生を繰り返せば、人はまったく違うものに生まれ変わるだろう。こんな、いっそ死んだ方が幸せだと思えるような男は、生きていない方がきっと良いのだ。もっと狡猾で、嘘に慣れた人間として生まれる方が、きっと。 それは私の主観で、彼の主観とはまったく相容れないのだろうけれど。 私の希望はあっさりと打ち砕かれ、次の世も、またその次の世も、彼は石田三成として生まれ、死んでいった。 相も変わらず綺麗な水の中に住んだまま、呼吸の仕方もわからないまま。 誰かの背を追う雛のように懸命に生きて、死んだ。 彼は己の前世をまったく覚えていなかったから、ああ、きっと繰り返しているんだ、と私は漠然と思ったものだ。 石田三成は、何度も繰り返している。 綺麗な水の中に生まれ落ちて、そこで生きることは出来ないのに、何故だ、ここでも生きられるはずだ、と。その水の中で生き続ける方法を模索して、見つからなくて、また探す。結局そんな方法があるはずもなく、水の中から抜け出るけれど、諦めることが出来ずに。 また、その水の中へと戻ってくるんだ。 なぜか私は、そんな石田三成に関する記憶をすべて引き継いで、今を生きている。 最初の記憶とはずいぶんと変わってしまった、平凡で平和な世界の中、ごく一般的な高校生として、至って普通に生きている。 それは石田三成も同様で、彼は私の二つ離れた斜め前の席に姿勢良く座り、まっすぐに黒板を睨んでいた。 この世界でも、彼はまだ純粋に、無邪気に生きている。 なぜだろうと思う。なぜ、あれだけの生死を繰り返したのに、まだその水の中では生きられないのだと、知ることが出来ないのだろう。理解が出来ないのだろう。 それはやはり、彼が純粋だから、なんだろうけれど。 純粋な人間なんて、良いものじゃない。 その純粋さは己を殺してしまうし、下手をすれば周囲をも殺してしまう。彼の数少ない財産すらも、塵に変えてしまうだろう。 現に今までがそうだった。私の、知る限りでは。 今世で、彼は己の住む水を汚すことを覚えるだろうか。それとも、その水の中以外に、生きる場所を見つけるだろうか。 そう期待をしてはみるけれど、やはり彼は、透明に澄んだ水の中で溺れ続けるんだろう。 純粋に、そこが己の世界なのだと信じて。 |