グラジオラス 何で今まで忘れていたんだろうと思うほど、私はその記憶をあっさりと思い出した。 自分自身の最期の記憶。終わる時の記憶。自分が死んだ瞬間の、記憶。 至近距離で私の首筋に唇を寄せる人を見開いた目で見下ろして、どくんと一際大きく鳴った心臓に無意識に手を当てていた。 その手をとり、指同士が絡み合う。 首筋から鎖骨へ降りた唇は、徐々に、更に下方へと伝っていく。 勢いよく吸い込んだ空気が狭まった気管を通り、妙な音を響かせた。 「、どうした」 いつもは鋭く細められている瞳が、今は優しげに、けれど怪訝そうに私を見つめている。 はだけたブラウスのボタンをはずす手を止めて、私の頬を優しく撫でたその手が、真っ赤に染まって見えた。 「怖いか?」 数分前の私なら首を横に振れた。 怖くない。怖いはずがない。 今、私に触れているのは、私がずっと想っていた人で、大好きな、人で。 不器用だけど真っ直ぐで、根は優しくて、すぐに壊れてしまいそうなほど脆い人だから、守ってあげたいとずっと想っていた。 そんな人に好きだと言われ、いつだって触れようと想えば触れられる距離にいられるのだから、幸せなはずなんだ。私は。 幸せだった、数分前までは。 「ごめ、ん」 「……気にするな。ゆっくり、慣れてくれればいい」 胸元に落とされた口付けに、背筋が凍る。 けれどそれを最後に私から離れた体温に、少しだけ安堵した。少しだけ。 私を見つめる瞳はひどく優しい。愛おしいと想ってくれているのだろう、感情が読み取れる。 私の瞳は、どう映っているんだろう。恐怖ともつかない感情に怯えているのが、見て取れてしまっているだろうか。 どうすればいいのかわからない。わからない、なにも。 だって、この人が、私を殺した。 惨たらしく、目も当てられないような姿に、私を。 「なまえ、」 「、な、に」 「……貴様は、覚えているか」 喉の奥が震えた。 静かに伸びてきた指先は、私の首に向かっている。 それを本能的に手で弾いてしまう、っごめん、慌てて口にした言葉も私の態度も、まったく気に留めてないかのようにその手は、私の太ももの辺りへ落ち着いた。 「何、を……」 ゆるゆると上げた視線の先で、その目は、やはりとても優しげで、愛おしくてたまらないものを見るように細められている。 「己が死んだ時の、記憶を」 未だかつて無い速度で、心臓が早鐘を打ちだした。手先が、足先が、震える。 「ごめん、何言ってんのか、わかんな……」 震える声でごまかせば、小さな笑い声が部屋に響いた。 口の中に溜まった唾液を飲み下す。 強く握りしめた掌に嫌な感触を覚えて、部屋が暑いわけでも無いのに、むしろ寒いほどなのに、自分は汗をかいているのだとやっとそこで気が付いた。思えば、背中に貼り付いたブラウスが、ほんの少し鬱陶しい。 「私は覚えている」 「……どん、な」 その口から漏れ出た言葉は呪詛のようで、祈りのようにも聞こえた。 言葉じゃ現しきれない恨み辛み、怒り、憎しみ、妬み、悔やみ。けれど最後には鼻を鳴らして嗤い、また、私に手を伸ばす。 その手を弾くことは、もう出来ない。 首に添えられた指先はゆっくりと頸動脈をなぞり、そこが温かく脈打っていることに安堵したように、……けれど高揚したかのような顔で、綺麗に整えられた爪先が、静かに立てられた。 「また、」 ――殺すの。 訊こうとした言葉は、噛み付くような口付けに遮られた。 指先は休むことなく首筋をなぞり続けている。 嗚呼、そうだ。あの時も、そうだった。 やっぱり愛おしげに見つめてくる視線の先で、私はどうすることも出来ずにいた。 抱き締めることも、はねのけることも出来ずに。震えていた。 「なまえ、私に殺された貴様は、今度は、私に生かされるのだ」 永遠に、ずっと。 淡々と述べられた言葉に、どうすることも出来なくて、曖昧に笑う。 強く立てられた爪は、がり、と私の首筋に爪痕を残して、真っ赤な血が垂れていく。あの時の痛みに比べれば。 「思い出したのなら、私は誓おう。もう一生、何があっても、私はなまえを離しはしない。私の全てをかけて、貴様を愛すると」 あの時の苦しみと、比べれば。 「だからなまえ、貴様も、すべてを私に」 血と同じくらい真っ赤な舌が、白いブラウスに染みていく血を舐め取った。 嬉しそうに、愉しそうに。 (グラジオラス:ありきたりでない愛、思い出、用心、忘却) |