言葉は気持ちよりも軽い [2/4]


三人組の男性客はその後も度々店を訪れ、特にジャージの男性は一人でもちょくちょくやってくるようになった。
一月も経てば、すっかり常連だね、と店員たちもうっすら顔を覚えてくる。
シエミは気が気でなかった。ジャージの男性が現われるのは決まってシエミがレジに立っている時だ。その時間も、シフトなんて知らないはずなのに、シエミが上がる直前を狙ったように来ている。

きっかり勤続一年目の今日、シエミはとうとう覚悟を決めた。男が頻繁に来店するようになってから、二ヶ月目のことだった。
その日の男は、シエミがバイトを終える三十分前に入店した。コーラとホットサンドを頼み、正面口そばの二人席に座る。レジからよく見える席だった。レジに立つシエミが、よく見える席だった。
長くも短くも感じる三十分が経ち、この日のシエミは一人でタイムカードを切る。お疲れさまですとロッカールームに回り、五分足らずで着替えを終えた。
鏡と睨めっこをしながら髪の毛を整え、リップを塗り、おかしなところがないか全身を確認する。最後に靴を履き替えて、シエミは鞄を手に裏口の扉を開けた。

はたしてそこに、件の男性客は立っていた。

声を出せないでいるシエミを見下ろし、男は困っているのか焦っているのか、どうにもわかりづらい態度で頭を乱暴に掻く。
シエミはただじっと、男を見上げていた。ずっとずっと前から知っていた、男を。

「――……っあの、」
「――……っおい、」

声が重なる。
らしからぬ真っ赤な顔を、男は驚きに染めていた。不安そうにも思える表情だ。
「なんだよ」と長い長い沈黙のあと、男はやはり不安げな声音で呟く。シエミの心音はピークに達していて、明日は熱を出してしまうかもしれない、と関係のない思考が一瞬浮かんだ。

胸が躍る。胸が高鳴る。シエミはこの思いを知っている。
生きることの素晴らしさを教えてくれる、この鼓動を知っている。何で生きていることが素晴らしいかを、その理由を、シエミは知っていた。

「その、いきなりだとは、思うんですが」
「……おう」

あなたにずっと、言いたいことがあった。
あなたにずっと、ずっとずっと前から、お願いしたいことがあった。

シエミは胸の前で握った両手に力をこめ、深呼吸をしたあと、男を見上げる。
言おう、言ってしまおう。これが最大のチャンスだ。今日が、最初で最後のチャンスだ。
けれど覚悟を決めて口を開いたシエミを、男が「あーいや、待て!」だなんて、止めてしまう。意図せず不服そうな顔を見せてしまったシエミに気付くことはなく、男は呟いた。「俺から言わせろ」と。
数秒沈黙し、シエミは再び視線を男に向ける。

「では、同時に言いましょう」
「同時? ……あー……ああ、わかった」

いっせーの、の後で用件だけを、簡潔に。
そうして二人は暗がりの路地裏で、改めて向かい合った。各々の思いを伝えるため、正面に立つ者を見据えた。

いっ、せー、の。二人の声が重なり、しかしその思いは、重ならない。

「っお前が好きだ」
「私を殺してください」

重すぎる沈黙が落ち、男が、理解出来ないものを見るような目で、シエミを見つめる。

「……、は……?」

対してシエミは、ようやく言えたとばかりに、安堵の表情を滲ませていた。

「ずっとずっと、お願いしたかったんです。あなたはとても強い人だから。私を殺せる人だから。人を、殺せる人だから。私を終わらせるのはあなたがいい。あなたじゃなきゃ嫌なんです。だから、どうか、お願いします。私を殺して、終わらせて」

どきどき、どきどき。シエミの心臓は高鳴り続ける。興奮を、高揚を隠しきれず、まくしたてるような言葉となってしまう。

男は完全に置いてけぼりだった。当然だ。
ついさっきまで男は、自分の立っている世界も自分がどういう人間なのかもさておいたままシエミと向かい合い、そしてある種の確信を持っていた。同じ気持ちのはずだと、決めつけていた。でなければこんな状況にはなり得るはずがないと、男なりの常識で感じていた。
なのにその女が、甚だ非常識で、けれどともすれば男の住む世界とは似通った感覚を持っていたのだ。硬直し、シエミの言葉を理解出来ないでいるのも、仕方のないことだった。

最初のきっかけは、シエミの笑顔だった。
男の生きている世界からして、そもそも普通の女に笑顔を向けられる、なんてことはそうない。初めてシエミのいる店に入った時のように、普通の飲食店なんかに入ることはままあるが、それでも男に接客用とはいえまともな笑顔が向けられることはなかった。
男の風体、顔つきのせいだろう。どう考えてもカタギの者ではない。街を歩けば、一般人と接すれば、向けられるのは怯えの表情のみだった。それについて男が何かを感じたことはないが。
それでもシエミは、他の客と変わらず、男に笑顔を向けた。
男がたまに目にするような、男を誘う媚びた笑みではない。女としての笑みではなく、あくまで一店員としての笑みだった。
その穏やかな日のような笑みに、男はつい、見惚れてしまったのだ。

所詮は接客用の笑顔だとしても、その笑顔が見たくて、男は店に通った。出したくもない金を毎回きちんと丁寧に払い、レジに立つシエミの笑顔に、何かを溶かされるような感覚を味わい続けた。
いらっしゃいませと最初に挨拶する時の、夏の日だまりのような笑顔。ごゆっくりどうぞと客席に見送る時の、春の朝日のような笑顔。軽食のおすすめは何かと訊いてみたらおずおず答えた時の、秋の木漏れ日のような笑顔。機械の故障でコーラが用意出来なかった時の、申し訳なさそうな、冬の夕日のような笑顔。
その全てが接客用の、貼り付けられたものだ。けれどそれこそが、男の気持ちを少しずつとろかせていった。
何でもいいから、この笑顔を見ていたい。ずっとこの笑顔を、向けられていたい。

けれどシエミが男へと抱く思いは、それとはほとんど真逆のものだった。

「俺を……知って、んのか、」

ようやくの思いで絞り出した声は、バカらしくも震えている。自嘲したい気もしたが、男の表情筋は動かない。
シエミは貼り付けたような笑みのまま、男を見上げていた。男が見たがっていたはずの笑顔だ。なのにその笑みは、機械的な、無機質なものに思えた。

「幻影旅団の、フィンクスさんですよね。知ってます。だからこそ私は、あなたにお願いしたいとずっと思っていたんです」

シエミの心臓は、変わらず高鳴り続けている。
生を喜び、実感させる鼓動。何度でも味わいたいと思えるほどの幸福。胸が躍るという気持ち。
私は今、生きている。だから私は、死ねる。この人に殺されることが出来る。

「私を、殺してください。フィンクスさん」

だって会おうと思わなかったのに、会おうとしなかったのに、会えたんだもの。それを人は運命と呼ぶのでしょう。これってきっと、運命でしょう?
高鳴る心臓を、シエミはもう落ち着かせようとはしない。胸の前で握りしめていた両手をおろし、硬直し続けているフィンクスへ、笑顔を向けた。

皮肉にもそれは、もしいつか見ることが出来たならとフィンクスが思っていた、シエミの心からの微笑みだった。

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