笑顔は時給よりも安い [1/4]


胸が躍る。その気持ちをシエミは、人生で初めて実感した。
鼓動とはこんなにも軽やかなメロディを奏でられるのか。奏でられる、ものだったのか。その事実を初めて知り、そして更に実感する。
私は生きている。生きているからこそこんなにも胸が躍り、鼓動が高鳴っている。
ああ、ああ、生きていることは、こんなにも素晴らしい!

だって生きているから、死ねるのだ。


 *


「ありがとうございましたーまたお越しくださいませー」

気怠げに間延びしながらも、薄っぺらい気持ちだけはきちんと籠もっている。そんな声音で客を見送ったシエミは、レジに立ったままストローの補充を始めた。
ここはある市内のカフェだ。カフェといってもそんなおしゃれな感じではなく、雰囲気としてはファストフード店に近い。メニューは簡単な軽食がいくつかと、安っぽいドリンクたち。店内の八割が禁煙席で、残りの二割が喫煙席。チェーン店なのでそこそこの客入りはあるが、それでもお昼時とおやつ時以外は暇。そんな感じの店。
シエミがこの店でバイトを始めてから、もうすぐ一年が経とうとしていた。

自動ドアが開き、店の正面口へ視線を向ける。「いらっしゃいませ」の言葉は、他のどの挨拶よりも言い慣れた気がした。
入ってきたのは三人の男性グループだ。ここはセルフサービスのカフェなので、三人も何やら話しつつレジへ向かってくる。

「いらっしゃいませ。お会計は別々でよろしいですか?」
「一緒で。……後で返してよ」
「付き合ってやってんだから奢れよ」

喉渇いたって言ったのはフィンクスじゃん。じゃあどっか店入るかっつったのはシャルだろ。二人共うるさいね、ささとするよ。
そうやってレジの前で一悶着を始める三人組を、シエミは曖昧な笑顔で眺める。とりあえず会計は一緒でいいんだろう。三人、二十代、とレジに客層を打ち込んでおく。
シエミの心臓はいつも以上に早く、全身へ血液を巡らせていた。顔どころか手足の指先までもが熱い気がする。それでもそんな態度、おくびにも出さない。なぜならシエミは接客中なので。

「ご注文お決まりでしたら、お伺いします」

一悶着が終えた辺りでどうにか決まり文句を口にする。三人はレジ前のメニューに視線を落とし、「じゃあ俺アイスコーヒー」「コーラ」「コーヒー」と口々に告げた。
「コーヒーはホットでよろしいですか?」と三人目の男性に確認を取る。無言で頷かれたので、シエミはドリンカーに注文を伝えた。同時にレジにも注文を打ち込み、合計額を示す。
最前の男性にお札を一枚渡され、シエミは慣れたように受け取ってから、数字を打ち込みつつ他の店員に聞こえるよう声を出した。

「一万ジェニー入りまーす」

はーい、お願いしまーす、そんな返答が他の店員たちから響く。
とっくの昔に慣れた違和感を飲み込み、シエミはドリンクが載ったトレーを三人の男性客へ差し出した。
お金を出した男性と黒服の男性はさっさと席へ向かっていたからか、代わりにジャージ姿の男性がそれを受け取る。

「お待たせいたしました。アイスコーヒーとコーラとホットコーヒーでございます。お砂糖などはあちらにございますのでご自由にお取りください」

言い慣れた言葉。男性客も聞き慣れてるんだろう、はいはいと言いたげにさっさとトレーを引く。
普段、シエミはあまり客の目を見ない。けれどその時は、たまたま、ぱちりと目が合った。高鳴る心臓を落ち着かせるよう唾液を飲み込み、浮かべ慣れた接客スマイルを貼り付ける。

「ごゆっくりどうぞ」

他の店員たちも次々に、ごゆっくりどうぞーと客の方すら見ず口にした。
男性は何故だかぽかんとした表情で、数秒、シエミを見つめ続ける。貼り付けた接客スマイルのまま、シエミの背筋にじわりと冷や汗が滲んだ。それが伝っていく感覚に内心顔を顰めつつ、やや首を傾げる。
何か忘れてただろうか。ストローも置いたしスプーンも置いた。お手ふきもちゃんと載っている。脳裏に浮かぶ疑問符が十を超えた頃、ようやく男性はレジから離れていった。
ほっと息をつき、次の客の対応を始める。

三人組の男性客が入店したのは十七時前で、シエミのバイトあがりは十七時だった。
「シエミちゃんあがり? 一緒に帰ろ〜」と声をかけてくれたドリンカーの店員と共にタイムカードを切り、「お疲れさまでーす」「お先に失礼しますー」と裏のロッカールームへ向かっていく。
途中、ちらと件の三人組へ視線を向けた。興味本位の行動だった。けれどその行動を、シエミはすぐさま後悔する。

再び、ぱちり、目が合った。視線が絡んだ。ジャージ姿の男性客が、帰ろうとするシエミをじっと見つめている。
二秒ほどが経って、まるで金縛りにあったような感覚に襲われていたシエミを、一緒に帰ろうとしていた彼女が呼んだ。我に返り、会釈をしてから顔を逸らす。

「あのお客さん、イケメンだったよね。茶髪の人。はー、あんなイケメンの彼氏ほしー」
「ロッタさん、彼氏いるじゃないですか」
「今の彼氏はイケメンじゃないもん」

ロッカールームで着替えつつ、彼女と談笑を続ける。
やっぱり一般受けするのは彼のような顔立ちの男性なのだろうか。シエミはちらとだけ考え、すぐに納得した。まあ少なくともジャージの彼よりかは、万人受けするだろう。

着替えを済ませ、従業員用出入口から外に出る。正面口前の通りを二人並んで、駅へと歩き始めた。
横目だけで店内を見やる。件の男性とはまた視線が合ったが、今度はシエミも金縛りにあうようなことはなく、そのまま通り過ぎた。
知ってるから、振り返らない。シエミは他愛のない話を同僚と続け、駅へと歩き続ける。

明日もバイトだ。そしてシエミは、明日もその男性客と会うことになる。

 
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