甘味 [55/56]


ふと、嗅いだことのない香りが三日月の鼻をくすぐった。目的地である離れから香ってくるようで、三日月は何の香りだろうか、と僅かに目を細める。
嫌なにおいではない。良い匂いだ。甘く、頭の奥をとろけさせるような、蠱惑的な香り。

今月の近侍は博多なのだが、博多は今日の出陣部隊に組み込まれていたので、三日月が代わりを担うことになった。
近侍の仕事は様々であり、挙げ連ねればきりがない。とりあえずは主である審神者の補助である。鍛刀や刀装作りは問題ないけれど、三日月は書類整理が苦手だった。
今日はそういった仕事がないといいな、と考えつつ、渡り廊下を歩いていく。

「やあ、おはよう」

執務室の障子を開こうとしたところで、居間の方から髭切が出てきた。
離れに近付けば近付く程濃くなっていった香りを、髭切は存分に纏わせている。おはようと挨拶を返してから、けれど香りの正体を問いかけることなく、三日月は執務室の障子を開けた。
髭切も気には留めず、そのまま母屋へと向かって行く。

執務室の中には主だけが座っていた。既に出陣部隊への指示をこなしているところで、三日月は声をかけてからその傍らに腰を下ろす。
彼女の姿は見えなかった。けれど気配はすぐそばにあり、物音からしても台所にいるらしいことは察せる。まだ昼食にも早い時間ではあるが、茶と茶菓子の用意でもしているのだろうか。だとしたらこの良い匂いの正体は、彼女が時折作っている洋食や洋菓子などかもしれない。

三日月は内心で、ちょっぴり辟易した。
基本的に、食べ物はどれも好きだ。甘い物も辛い物も、酸っぱい物は物によるが、まあだいたいは美味しく頂ける。
しかしどうにも、洋食の類ばかりは口に合わなかった。初めに食べたのはシチューという、小麦粉と油と牛乳とを混ぜ、西洋の汁で溶いたような食べ物だった。具材は人参と玉葱、じゃがいも、鶏肉とウインナー。まあ、具はいい。三日月はその汁自体がだめだった。
あの口蓋や舌に粘りつくような感じと、牛の乳臭さ。餡とはまた違う、どろりとした食感。控えめに言って、口に合わなかった。
彼女や、料理番の刀剣男士や、はたまた気まぐれを起こした主がその後も度々洋食を作っていたが、シチューで完全に苦手意識を持ってしまった三日月は、満面の笑顔で食べていた今剣に譲る形で、己の分量を減らしていたのだ。
そんなわけだから、彼女が時折作るパンだとか洋菓子だとかも、食べずに済むよう上手くかわしていた。
けれどこの状況下で、彼女が茶菓子の用意をしているのなら。必然的に、三日月のものも用意されているだろう。彼女自身が三日月に勧めてくるわけではないだろうが、主が勧めてくる可能性は大いにある。
だからこその、ちょっとした辟易だった。別に食べられないわけではないだろうけど、せっかくのおやつなのだから、どうせなら自分の好きなものを食べたいなあ、というわけだ。

「すげえ匂いだろ」

出陣が一段落したところで、主がこちらへと笑顔を向ける。
香りの強さは、確かに強烈だ。母屋の方まで漂ってきていた、と返せば、だろうなと主はまた笑う。
主はまた、よく笑うようになった。それが嬉しいから、三日月は水を差すようなことは言わない。

「補佐が何か作っているのだろう? 何を作っているんだ?」
「今日はバレンタインだからな、チョコ菓子だって。……バレンタイン、わかるか?」

勿論わからないので、三日月は首を振る。
しばらく悩んだ様子を見せてから、好きな人とかお世話になった人とかに、感謝の気持ちとかを菓子で伝える日……って感じかな、と主は説明をした。
チョコの説明もしようとしてくれたようだが、いまいち説明しづらかったのか、チョコに関しては甘いもの、としか三日月にはわからなかった。まあ甘いものだろうことは、この匂いから存分に察することが出来る。

「昔はバレンタインになると学校中こんな匂いでな。俺もそこそこ貰ってきたけど、当分甘いもんは食いたくねえなって思えてきたわ。今になると、早く食いてえ〜って思うけど」
「主は人に好かれていたのだな」
「そこそこな」

ドヤ、と主は自慢げに笑った。三日月ほどではないが、確かに主も整った顔をしている。好かれるのも道理だろう。

しかし、好きな人や世話になった人、か。
となると俺の分もあるのだろうな。三日月は自然と、当然のように、そう考える。特に彼女の世話をした覚えはないが、三日月は天下五剣で一等美しい刀だ。刀剣男士となって人の身を得た今も、万人に好かれる顔立ちをしていると考えている。
だから当然、補佐も三日月を好いているだろうと。ならばそのチョコとやらも、三日月の分が用意されているのだろうと。おそらく主と、彼女の刀剣である膝丸と髭切、もしかしたら今剣のものもあるかもしれない、そして三日月。その辺りだろうなって、当然のように考えていた、のだけれど。

「はい主、いつものお礼に。三日月さん、お疲れ様です。後でお茶持ってきますね」

一時間ほどが経って、チョコ作りを完成させたらしい彼女は、ぽいと主に箱を渡したあと、三日月に会釈をして母屋へと去って行った。手には大小五つの箱を抱えていたが、それを三日月に渡す素振りなど、ひとっつも見せなかった。
思わず三日月が、天下五剣らしからぬアホ面で、あんぐりと彼女を見送ってしまったのも、仕方のないことである。

「うん、ちょっと不細工だけどうめえなこれ。後で余りも食わせてもらお」

さっさかと箱を開いてチョコとやらを摘まみ始めた主は、もぐもぐと口を動かし幸せそうだ。
それを眺めていると、さっきまで辟易していたはずなのに、三日月は俄然チョコを食べたくなった。けれど主のものを貰っても意味がない。だってあれは、主が彼女に貰ったものなのだ。三日月に渡されたものではないのだ。

もしやあの娘、俺のことを好きじゃないのか!? と、三日月は母屋へ振り向く。勿論彼女の姿なんて見えやしない、というか締められた障子しか見えなかったけれど、なんとなくそうしてしまったのだ。バッと、勢いよく。
演練に出れば三日月だ三日月だともてはやされ、三日月を目にして頬を染める女も、顔をとろけさせる女もいっぱいいたのに、何故!? 困惑の極みである。

「なあ主……補佐はもしや、稚児趣味なのだろうか」

外から「わあ、良いのですか補佐様!」「嬉しいです、ありがとうございます!」「んーっ、おいしい!」「すぐ溶けちゃいます!」だなんて声が聞こえてきて、三日月は思わずそう問うてしまった。
庭で遊んでいた非番の短刀たちに、チョコを渡しているところなのだろう。そうか、チョコとは溶けるものなのか。心の隅でそわそわする。

主はあからさますぎる、何言ってんだこいつ、の顔をして、三日月を見つめていた。あまりにもあからさますぎてちょっと傷ついた。

「いや……、普通に同年代とか、年上とかが好きだと思うけど……」
「では何故、俺ではなく短刀にちょこを……」
「そもそも三日月、あいつとそんな話したことないだろ? あいつ一人でこの本丸の全員分作るのは無理だろうし、もらえない奴のが多いだろうよ」
「だが俺は、美しいだろう?」

ポカン、と主が顔を呆けさせる。そのまま数秒固まって、く、と何か呻いたかと思えば、腹を抱えてげらげらと笑い始めた。
三日月はむっつりと頬を膨らませる。

「いや、ははっ、確かにそりゃ三日月は俺から見てもすげえイケメンだけどな! ふはは、すっげえ自信! ンなにチョコもらいてえなら補佐に言やあいいじゃねーか!」

それはなんとなく、プライド的な意味で嫌だったので、三日月は頬を膨らませたままだ。
そうこうしている内にチョコを配り終えたのだろう、彼女が執務室に戻ってきた。直接台所に戻ればよいのに、何故敢えて執務室を通るのか。おそらく主にチョコの感想を聞くためだろうけども。
案の定「チョコ、どうだった?」と話しかけながら、彼女は主の隣に座る。三日月には目礼をしたのみだ。三日月が頬を膨らませているのには、多少なりとも驚いたようだが。

「美味かったよ。形がもうちょいアレだな」
「テンパリングやり直すのめんどくてね……ついね……。まあ美味しかったなら良かった。余ったやつもっと不細工だけど、どうする? 今食べる?」
「そうだな、二つだけ。もうすぐ昼飯だし」
「どうせならおやつの時間に配れば良かったかな。……でも全員分はないし、まあいっか」

そこまで話し終えたところで、彼女の顔が三日月へと向いた。

「ちょっと見た目は悪いですけど、三日月さんもお一つ、いかがですか?」

二秒ほど彼女の顔を見つめ、三日月は考える。
なるほどつまり、彼女は恥ずかしかったのではないだろうか。贈り物としてきちんと渡すには、三日月はあまりにも距離が遠すぎた。だから敢えて、こういう形で渡すことにしたのだ。うん、そうに違いない。
多分そうじゃないだろうなあと内心ではわかっていたけど、三日月はそういうことにした。
合計五秒で思考を終え、うむと頷く。では一つだけ、もらおう。三日月の返答に補佐はにこりと微笑んで、一旦引き戸の向こうに消えた。

戻ってきた補佐の手には、小さな皿が一つ。その上に四つのチョコが載っていたのだが、確かに形は不格好だった。泥の塊のようだ、と三日月はこっそり顔を顰める。脳裏にぼんやりと浮かんでくるのは厩で見たあれそれである。
しかし彼女が懸命に作ったものだ。そういった感想は黙することにして、主が一つ摘まんでから三日月もチョコを手に取った。
表向きは優雅な仕草でありながら、ほとんど勢い任せに口内へ放り込む。
きつく閉じていた瞼が、ぱっと開かれた。

「! ……、……! 補佐、これはまだ残っておるのか! 残り幾つだ?」

それは、甘かった。けれどほのかな苦味もあり、舌の上ですうと溶けると同時にあの蠱惑的な香りが鼻へ抜けていく。パリ、と割れたそれの中からは、とろりと濃厚な、甘い餡のようなものが出てきた。それもまたほんのり苦味があって、香ばしくて、くどくはない。
生まれて初めて口にしたチョコは、今まで食べた何よりも美味しかった。
洋食も洋菓子もあまり食べたくないと思っていた三日月だが、ここまで美味しいものがあるのなら今までがそうじゃなかっただけで、他にももっと美味いものがあるのでは? と俄然洋食への興味が湧いてくる。
幼子さながらに彼女へと詰め寄れば、主がまたけらけらと笑い声を上げて、彼女は苦笑気味に硬直していた。

「ちょこと言うのだったな、この中に入っているのは何だ? とろりとしている。美味い。甘いだけではなく苦味もあるのが良い。まだ残っているのだろう? どうなのだ、補佐」
「残っては、いますけど……。中に入ってるのは、ええと……木の実を砕いて、焦がした砂糖と和えたあとに、潰したもの……? です」
「なるほど、では持ってきてくれ。俺が全て食べよう」

主が俺のおやつ……とぼやいていたが、主はもう箱でもらったのだから良いではないか。三日月はもらっていないのだから。
苦笑気味の彼女は、己の分だろうチョコを一つ口に放り込んでから、わかりましたと引き戸の向こうに戻っていった。
次の給料はチョコに使おう。三日月は心の中で給料の使い道を決め、チョコの余韻に浸る。

「ちょこはよいな……美味しいものは良いものだ。明日からは補佐となかよしになろう」
「現金だなお前」

彼女と同じような表情で主は苦笑し、最後のチョコを摘まんだ。

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