月見酒 [56/56]


ある日、私はどうにも寝付けないで、寝間着姿のまま庭に出ていた。池をぐるりと取り囲む岩の一つに腰かけ、あっすげえケツ冷える、と数秒で気付き、今はしゃがみ込んでいる。
視線の先、池の中で、鯉がゆらゆらと泳いでいた。時折月明かりに反射して、鱗がきらきらと光る。
見える範囲の庭を全て見渡し、最後に明かりの消えた母屋に視線を留めた。庭にはぽつぽつと明かりがついているけれど、母屋は真っ暗だ。きっともう、全員が寝静まっている。

この本丸が、私の家だ。
池に向き直り、目を伏せる。この本丸が、私の家になった。

そのまましばらくぼんやりとしていれば、不意に背中を何かが覆った。ふわりとかけられたそれは羽織のようで、徐に視線を上げる。
やあ、と柔らかく目を細めているのは、髭切だった。

「こんなところにいたら、身体が冷えてしまうよ。……ありゃ、不服そう。弟じゃなくて残念だった?」
「残念とまでは。ありがとうございます、髭切。よくわかりましたね」

髭切は私の隣にしゃがみ込み、池の鯉に視線を向けている。私の問いかけに返答もせず、鯉って寝ないのかな? と問い返されたが、知らないので「さあ……」としか言いようがなかった。
太刀である髭切は夜目もきかないだろうに、どうしてここまで来たんだろう。どうやって、という意味であるのなら、そりゃ契約の糸を辿ってきたのだろうけど。

「もしかしたらね、主が泣いているんじゃないかなあと思ったんだ。だったら、慰めてあげなきゃいけないだろう?」

数分の間、無言で鯉を眺め続けていたのだが。ようやく答えた髭切の言葉に、私は苦笑するしかなかった。
この人はどうしても、私を泣かせたいようだ。

「……慰めが必要なほど、子供じゃありませんよ」
「僕にとっては、三歳の幼子も八十の老人も、誤差の範囲だよ」

なるほど、と納得する。刀剣男士の中で一番若いらしい和泉守にとっても、そりゃあアラサー間近の女だって幼子と大差ないだろう。確かに十年二十年程度、誤差でしかない。
住んでる世界が違うなあ、だなんて、今更に過ぎる感想を抱きながら、羽織の位置を直した。

「やっぱり時差丸の隣じゃないと、泣けない?」
「膝丸です、髭切。……いや、膝丸の隣でも、髭切の隣でも、別に泣きやしませんよ」
「どうして? 審神者はあんなに泣いていたのに」

遠くから微かな足音が聞こえた気がしたんだが、ひとまず意識の端に追いやって、髭切の問いについて考える。
どうして? そう問われても、答えようがなかった。
今でもやっぱり、私は彼よりマシだから。そう思う気持ちは大いにある。だから泣くほどじゃない。荒れ狂いもしない。期待はしていたけれど、そしてその期待は期待でしかなかったけれど、……それだけだ。泣くほどじゃない。
修行に出る直前の今剣にも、憐れだと言われていた。澱みを吐き出さず、溜め込み続ける、憐れな人の子。
なるほど確かに、そうなのだろう。今剣がそう言い、髭切と膝丸がそれとなく気を遣ってくれている。私はきっと彼のように泣き叫び、どうして私が、何で私だったのだと、どうしようもない事を嘆いていい立場なんだろう。

でも、そうする気にはなれなかった。そうするタイミングも、逃し続けた。そう出来る場所も、ここにはなかった。
そうしたいとも、思わなかった。

だって泣いたら、嘆いたら、余計惨めになる。
私は、自分ですら私を可哀相だなどと認めたくないのに、泣いて叫んで暴れるなんてことをしてしまえば、相手の同情を引いてしまう。可哀相だと思われてしまう。
それが嫌だった。つまりはまあ、プライドだ。私は私のちっぽけなプライドのために、嘆き悲しむ自分を見捨てた。

「主、兄者。逢瀬には暫し遅すぎる時間だぞ」
「遅かったね、時丸」
「膝丸だ、兄者」

視線を上げた先、膝丸は盆を手にしていた。徳利が見える辺り、まさかの酒である。

「膝丸でも冗談とか言うんですね。逢瀬だったらもっとこっそりやります」
「僕のおすすめは城下町の宿屋かな」
「審神者不在で向かうならば、手形をもらう必要があるがな。……いや、主も兄者も、本筋はそこじゃない」

酒の載った盆を一旦私に預け、何をするかと思えば、膝丸はどこからか取り出したシートをばさりと広げた。気が利くね、といの一番に髭切が靴を脱いで座り、膝丸もその傍らで正座する。
座らないのか、と視線を向けられたので、盆をシートの上に置いてから、私も草履を脱いだ。ずっとしゃがんでいたからか、立ち上がると膝がぼきりと鳴った。

まずは髭切のお猪口に膝丸が酒を注ぎ、なんか流れで、私も注いでもらう。膝丸のお猪口には私が酒を注ぎ、謎の月見酒が始まってしまった。なんだこれ。
そもそもあんまり酒は好かないんだがなあ、と思いはするが、注いでもらったもんは仕方がない。
ちろりと舐めるように飲んでみて、私は、ぱちくりとまばたきをした。

「美味しい」
「俺と兄者は、君の護衛役として政府から給金をもらっているからな。それで買った。良い酒だろう」
「するする飲めちゃうよねえ。おかわり」
「とはいえ時間も時間だ。飲み過ぎてはいけないぞ、兄者」

日本酒なんてほとんど飲んだことないけど、これはめちゃくちゃ飲みやすかった。ほんのり甘くて、喉をじわりと温めてくれる。そんな感じ。
お猪口に入っている量なんてあっという間に飲み干してしまい、そうすると今度は髭切がお酌をしてくれる。レアだ、と思いながらありがたく受け取った。

その後はしばらく、取り留めのない話をだらだらと続けた。一番多く出てきた言葉は「膝丸だ、兄者」と「膝丸です、髭切」の二つだろう。
わざとかってくらいボキャブラリー豊富な呼び間違いは、何度訂正しても直らなかった。やっぱりわざとなのかもしれない。本気っぽいけど。

お猪口三杯目にして、私はほんのり酔っていた。
月は綺麗だし、池の鯉はきらきらしているし、一緒にいるのが私の刀だしで、気分は上々だ。眠気が来ない分、少なからずテンションが上がっている。

二人が私を選んでくれて嬉しかった。特に源氏兄弟ってのがおさまりよくていい。ワンチャン今後も仮契約してくれる刀剣が増えるなら、モノクロ系でまとめて欲しいところだよね。物吉とか、日本号とか。まだこの本丸にもいないし。
でもやっぱ源氏兄弟二人だけって方が、なんか特別感あっていい。最高。私が初めて生で見た刀も膝丸と髭切だし、これも縁ってやつかなー。やっぱなんかこう、シュッ! としてていいよね! 刀のこと全然わかんないけど、殺しやすそうだし強そう! シュッ! としてるのがいい! 絶対切れ味いいし、事実良かった!
膝丸と髭切が私の刀でよかったー!
……以上、私の酔っ払い語録である。テンアゲしまくってた。蛇足だが翌朝の私は羞恥で死んだ。

「ふふ、主は僕たちのことが、大好きなんだねえ。僕もそういう主のことは好きだよ。もっと霊力が清くなってくれれば言うことなし!」
「少し飲ませすぎたか。まさかこれだけの量で酔うとは……。しかし主は、そう思っていたのだな」
「そう思ってたんですよ。源氏兄弟だいすき。最初に膝丸が私を選んでくれた時、びっくりしすぎて心臓止まるかと思った」

ふふふ、と笑い声が漏れる。
ほんの少しだけ冷静な部分で、多分膝丸は酒の力を借りてでも私を泣かせ、ガス抜きしようとしてたんだろうなあ、と思う。微妙に複雑そうな顔をちょくちょくしてるのは、だからだろう。
私が泣き上戸だったらよかったんだけど、残念ながら結果はこうだ。すまんな、テンアゲするタイプの酔い方で。

水を持ってくる、と膝丸が席を立ったのは、それから割とすぐのことだ。
私は髭切を背もたれに、酔っ払いらしく無意味に池の鯉を数えていた。五を過ぎた辺りでまたわからなくなったー、と一から数え直すのを何度も繰り返している辺り、マジで酔っ払いである。

「今なら泣いても、僕と膝丸しかわからないよ。僕たちは主を憐れみはしない。ただ隣にいてあげる。泣いたことも、明日の朝には忘れてあげる。……それでも、君は泣かないの? 人の子って、そこまで強くはないだろう?」

残った酒を飲みきる勢いで喉に流し込んでいた髭切が、私を引き寄せる。逆らわずに倒れれば、髭切に膝枕をされる形となった。極楽かな?
見上げる先の髭切は、月を背負って神々しい。いつぞやの後光を背負った膝丸を思い出す。どっちも本当に、本物の神様だ。
帰ってきた膝丸がちょっぴりぎょっとしてたけど、無言で私たちの傍に座った。

「主を泣かせたがる刀剣男士なんて、そういませんよ」
「泣かせるのが、主のためだと思ってるからね」
「主は溜め込みすぎだ。君を守るのが、俺たちの役目なのだから。職務を全うさせてくれ」
「主が心労で倒れちゃったら、僕たち、悲しいなあ」

本当に、どうしても泣かせたいらしい。充分ガス抜きは出来たのになあ。膝丸と髭切がいてくれるだけで、十二分に救われているのにな。
それともそこまで、私は酷い状況に見えているんだろうか。誤魔化せていると思ってるのは、私だけなんだろうか。

「――……正直さあ、」

ぽつり、呟く。膝丸が私の手をとった。髭切は、そうっと私の髪を梳いている。

「キツいなあ、とは思ったんだよ。何度も、選択肢間違えたって考えた。神様も人選ミスってるって、心の中で文句言ってた。彼を可哀相だと思うことで、自分のことをなんていうか、上げてたんだよね。性格悪いけど、そうしなきゃ多分、潰れてたんだと思う。
 ここは彼の本丸で、私は部外者でしかなくて、親身になってくれる刀剣男士のことだってどうせ内心では鬱陶しがってんだろうなとか、泥棒猫とか思われてんだろうなって、彼の本丸をかき回す、邪魔者だと思われてんだろうな……って。でも彼には私が必要だから、追い出されはしないってわかってたから、私も彼に、依存してた。依存してたんだよ。彼がいなきゃだめなのは、私の方だった」

素直に、真っ直ぐに、疑うことなんてせずに、甘すぎるくらいに私を信用していた主。彼を憐れむことで、彼に依存することで、私は自分を安定させていた。
そんな自分の性格悪いとこも自覚してたから、私は、私が泣くことを許せなかった。悲劇のヒロインぶるのは、自分の心の奥の、底の方だけにしておきたかった。

「家族のことも、友だちのことも、彼氏はいなかったけど、片想いしてた人だっているし、みんな大好きで、大切な人たちだったんだよ。私は彼みたいに、直接事実を突きつけられたわけじゃないけど、それでもつらかった。私のいたとこにはもう誰もいなくて、きっと、友だちには別の友だちが出来てて、もう私の座る席はどこにもない。つらいでしょ、当然だよ。
 私がお母さんにあげたマグカップも、お父さんにあげたネクタイも、弟にあげたゲーム機も、全部なかったことになったんだよ。友だちとクリスマスに彼氏なし四人で集まって、キリストがなんぼのもんじゃって寺巡り決行したのも、四人じゃなくて三人になったんだよ」

だんだん、涙がにじんでくる。涙声が混じって、鼻をすすって、多分すごい不細工な顔になっていた。
片手で顔を覆って、一度だけ、しゃくりあげる。

「なんも悪いことしてない、とは、言えないけど。自分の存在なかったことにされるくらい、悪いことはしてないよ。何で私なの。生まれるべきじゃなかったって、消えるべきだったって、そんなの私には関係ない。そんなの知らない。正しい歴史も間違った歴史も知ったこっちゃない。いっぱいの霊力なんていらなかった、私はただ、自分の生きてきた世界で普通に生きて、そりゃ嫌なこともあったし、死にたいって思ったこともあったけど、それでも楽しいこともいっぱいあったし、そうやって、生きてくのが、普通でっ、……誰も救ってくれなんて、言ってない。消えるべきなら、そのまま消してくれれば、こんな、キツくなる必要もなかったのに」

耳元を女の声がかすめていくが、今の私には聞き取れなかった。
ぼろぼろ涙をこぼす私に、膝丸が手をぎゅうと握りしめてくれて、髭切はやっぱり、頭を撫で続けている。……いや待て、髭切は違う、なんか三つ編みされてる気配を感じる。話聞いてんのかこいつ。

「……っ、……以上です」

なんか恥ずかしくなってきたので、ぐすっと鼻をすすってから、話を無理矢理終わらせた。

うだうだ言いはしたけれど、今の私はもう、救われているんだ。
彼に、膝丸に、髭切に、この本丸の刀剣男士に。事実疎まれてはいただろうし、警戒している刀剣男士も多かった。いざという時は主のためにならずとも、斬って捨てようと思っていた刀剣男士だっていたはずだ。それでも今は、みんな、認めてくれている。
今剣の言う通り、私のおかげで主に会えたのだと、私の生を許してくれている。
不服にも元凶である女のおかげで、私はそれを、すとんと信じられていた。

なによりも、膝丸と髭切の存在は大きい。仮契約という立場でありながら、善意のみで、私を主としてくれているんだ。私の刀剣男士に、なってくれている。
どれだけ二人の存在が、私の支えとなっているか。膝丸も髭切も、理解している。

「俺は、君と出会えたことを幸福に思う。今、俺の主は君一人だ。縁があるとはいえ、選ぶ必要はなかった。君を見捨ててもよかった。それでも俺は、君を主に選んだんだ。この先も、ずっと君は、俺の主だ」
「うんうん。美食家の僕が、君を選んだんだよ。この先もずっと生きて、君にはもっと美味しくなってもらわなきゃ。変なものを溜め込みすぎると、不味くなっちゃうからね」
「人の嘆きを変なもの扱いかよ」

ふは、と吹き出して、顔を覆っていた腕で涙を拭う。ついでに頭へ手をやれば、案の定髪の毛がいじくられていた。もう一度笑って、視線を移す。

綺麗だなあ、としばらくの間ぼんやり、空を眺めた。

 
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