日常 [48/56]


雪見障子の向こうを眺めながら、冬だねえ、と補佐が呟いた。
いつぞやの見習い研修時に増設した離れの一階には、執務室と応接間の隣に、居間がある。普段あまり使うこともないが、今日は全休日で、なんとなく俺はこいつと、居間のこたつでゆっくりしていた。長方形のこたつの長辺で補佐と横並びに座り、補佐側の短辺に膝丸、俺らの正面に後藤と今剣が座っている。
正確には補佐は俯せに寝転がっていて、後藤は仰向けに爆睡中だ。今剣はわこわことみかんを剥いては俺の口に突っ込んできて、膝丸は補佐の携帯端末をなにやらいじくっていた。

「小学生くらいの頃、一回だけ大雪降ったよな」
「あったねえ、グラウンド真っ白で。先生まで何人かテンション上がってた」
「そうそう。田舎だったから最悪徒歩出勤も出来たろうけど、今思うと、出勤だるかったろうになあ」
「確かに。でも今はいいよね、どんな大雪降っても職場まで徒歩ゼロ分」

まあその雪も、俺が端末で降らせたり止ませたり出来るんだが。

俺が、もう元の世界に帰る理由が、意味がないと知ったあの日以降。補佐は時折、こうやって過去の思い出話に付き合ってくれる。それ以前も付き合ってくれてはいたけど、どうにも、そんなことあったっけ? といった顔をしてから頷くことが多かった気がする。
最近はそれもなくなった。単純に思い出せることばかりだったかもしれないし、俺に気を遣ってくれているのかもしれない。

あの日以降の俺は、今思い返してみても、酷かった。
今でも頻度はかなり減ったけど、酷く不安になる時がある。刀剣たちと補佐のおかげで、泣き喚いたり暴れたりするようなことはなくなったけど……それでもやっぱり、怖くなる。
忘れられてしまったのは、存在を、なかったことにされてしまったのは、もう俺にはどうしようもない。俺が恐れていたのは、俺自身が俺の過去を忘れてしまうことだった。
もう顔も声も思い出せない。家族だったのに。友だちだったのに。あんなに大好きだった恋人の顔も、一瞬、わからなかった。何度もまばたきをして、多分あの子だ、そうだ、きっと、いや絶対にあいつだ、と。確信するまでに、時間がかかった。
それが俺は、怖かった。
きっと俺は、その内に家族の、友だちの、恋人の名前も忘れてしまう。自分の名前も忘れてしまうかもしれない。補佐の名前も、思い出せなくなるかもしれない。
それが怖い。かといって、俺の名前も、補佐の名前も呼ぶことは出来ない。だから心の中でだけで、何度も何度も補佐の名を呼ぶ。

こいつは俺と居てくれるから。俺のことを忘れないし、俺のことを知ってるから。
俺も絶対に、こいつのことだけでも、ずっとずっと覚えていたい。こいつがどういう子供だったか、どうやって過ごしていたか、ここに来てから、どうしていたか。それを全部、忘れたくない。

「な、補佐」
「なに、主」

いつからか、こいつは俺のことを主、と呼ぶようになった。確かに三人称での呼び名がないのは不便だと思っていたが、それなら俺みたく役職名で、審神者と呼べばいいのに。
事実、補佐の刀剣である膝丸と髭切は、俺のことを審神者と呼ぶ。あの二人にとっての主は補佐だから、俺は役職名だ。
こいつもそうすればいいのに、俺の刀剣男士みたいに、主と呼んでいる。

俺はお前の主じゃない、と一度だけ言ったことがある。俺がまだ泣き喚いたり暴れたりしていた頃だ。大丈夫だよ、主、と呼びかけられて、思わず叫んだ。
許されるなら、名前で呼んでもらいたかった。俺が俺であることを、ちゃんと自分だけの名前を与えられて生きてきたことを、証明してほしかった。
でも、それは出来ない。荒れ狂った脳内でも、それは理解出来ていた。だからどうすればいいかわかんないまま、俺は主じゃない、と叫んだのだ。
どんな表情をしていたかは、知らない。きょとんとしていたかもしれないし、怪訝そうにしてたかもしれないし、気にしてなかったかもしれない。勝手な想像だけど、悲しんだり怒ったりとか、そういうのはしてなかったと思う。
補佐はただ、当然のように言った。
「ううん、主だよ。私がこの世界で生きたいと思う理由。私の主は、君だけだ」ああ、今思い返せば、俺が今くらいまでに落ち着いたのは、この言葉がきっかけだったのかもしれない。

「雪見てるとさ、あれだな。シチュー食いたくなるな」

思い返しながら、どうでもいいことを話す。冬と言えばシチュー、なんて感覚を、刀剣男士は知らない。
補佐は少しだけくすくすと笑ってから、そうだね、と頷いてくれた。

「ホワイトシチューね」
「ビーフシチューも美味いけどな。やっぱウインナーと鶏肉のホワイトシチューだ」
「私ベーコン派」
「いやウインナーだろ」

こんなどうでもいい話が、くだらない話題が、どれだけ俺の救いとなっているか。
きっと、補佐はわかっている。知っている。自覚しているから、どんな時でも俺のしょうもない話に付き合ってくれる。

クラスメイトは全員幼馴染みくらいの認識だった。それは本当だ。
でも、補佐は俺をただの元同級生、くらいにしか思っていなかった。言われてみれば、その通りかとも思った。
高校生になって携帯やらを持つようになっても、俺はこいつの個人的な連絡先は知らなかったし、小中学生の時だって、なんかの班分けが一緒にでもならない限り、ほとんど話はしなかった。
小学校の、だだっ広いグラウンドの中で。俺は仲良い奴らとサッカーをしてたけど、こいつは教室か図書室で本を読むか、グラウンドに出ていても他の奴らとバドミントンとかをしていた。一緒に遊んだことなんて、多分、ほとんどない。
成人式の時だって、同窓会の時だって、会話らしい会話なんかしなかった。そもそも座っている席が遠かった。全員で写真は撮ったけど、それも、離れた場所で袖が触れてもいない。

そんな距離の人間同士だったのに、補佐は俺を、救ってくれた。
霊力を与えてくれて、命を。側にいることで、心を。一人で阿津賀志山まで来て、俺の身を。
きっと来世でも、そのまた次の生を使ってでも、返しきれないくらいの恩。

こいつはそもそも、自分がいなければ俺がこの世界に来ることにはならなかった、って思ってるだろう。俺だって何度か考えはしたし、初めて聞いた時はショックだった。
でも、だから何だ。補佐がそうしたくてやったわけじゃない。悪いのは歴史修正主義者だ。こいつでも、勿論俺でもない。
俺にとっての補佐は、恩人でしかないんだ。俺の、俺だけの補佐だ。俺がこの世界で生きていくために、必要な奴だ。

「明日はシチューにしてもらうよう、頼んでみたら? まだ作ったことないよね」
「ああ、いいな。そうするか。ウインナーと鶏肉で」
「え〜……ベーコン……まあいいけど」
「補佐のしちゅぅに、べつでやいたべえこんとやらをいれればよいのではないですか」
「それです!」

今剣の言葉に、ぱっと起き上がった補佐が今剣を指さす。「人を指で指すな」「ひとではないですけどね」と膝丸と今剣が言って、補佐はすみませんとすぐに手を下ろした。

穏やかだ。きっとこれが、俺の日常だ。
元の世界で過ごした二十年も、俺の日常だった。時間としては比べるまでもない、大切な、忘れたくない、俺の過去。
それでもこの世界で過ごした六年も、そしてこれからずっと、多分死ぬまで続いていく未来も、俺の日常なんだ。大切で、手放したくない、俺の今だ。

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