愛情 [47/56]


元の世界の恋人に、そしておそらくは家族や友だちにも、自分は覚えられていなかった、忘れられてしまった、そもそも、存在すらしていなかった。
それらの事実を改めて、あろうことか恋人本人に突きつけられてしまった彼は、それはそれは荒れ狂った。泣きわめいて、苦しんで、暴れて、そうしてまるで幼子のように丸まって座る私の腹に顔を埋めてくるものだから、私は完全に自分が悲しむタイミングを失ってしまった。

それ以上に衝撃的な――耳元で囁く見えない女の声だとか――ことがあったから、そして私自身が家族や友だちなんかに直接事実を突きつけられたわけではないから、彼と比べれば元々悲しみの程度は低いものの。
多少は私も、期待していたのだ。
あれで彼の恋人が彼の名前を愛しげに叫び、熱烈なハグでもしてくれたのなら。私はそっと背を向けて、その辺にピアスを投げ捨てて、公衆電話でも探し出してから家族か友だちに連絡をとっただろう。
でも現実は、そうならなかった。

彼は私の腹部を涙で湿らせながら、何で、何で、と呟き続ける。荒れ果てた部屋でそんな彼の頭をぽんぽんと撫でる様子を、今日の近侍を担っている三日月と、私の刀剣である膝丸と髭切が心配そうに眺めていた。三日月は部屋を片付けながらだが。

あれからもうすぐ一月が経ち、彼がこうなる頻度も少しは減った。それでも数日に一度、あるいは一日に数回、こういう時がくる。
山姥切や和泉守なんかの古参刀剣は、痛ましげに表情を歪めつつも、どことなく懐かしそうにしていた。きっと審神者就任直後も、こんな感じだったんだろう。対応も慣れた様子だ。
きっと私がいなければ、彼もその辺りの刀剣男士に縋っていたんだろう。
でも今は、私がいてしまった。唯一彼の過去を肯定できる私が、彼の隣に居た。彼は一頻り暴れた後は泣き崩れながら補佐、と私を呼び続け、私が現われると腰に腕を回して、泣き疲れて寝るまでそのままだ。完全に幼児である。
今日もようやく寝入ったようなので、私はそっと撫でる手を離した。

「三日月さん、申し訳ないですけど布団の用意をお願いします。片付けは私が後でやりますから。髭切は濡らしたタオルを持ってきてください。あったかいのと、冷たいの」
「あいわかった」
「うん、ちょっと待っててね」

ちなみにここは離れの応接間であるので、彼を自室に移動させる必要がある。それは膝丸に任せ、私はずっと正座していたせいで痺れた足と格闘しつつ、膝丸を追って二階に上がった。

三日月が用意した布団に入った彼の目元を温かいタオルで拭いた後、冷たいタオルをかぶせておく。
膝丸は今日の料理当番を手伝うため一旦離れを去り、彼の自室には私と、三日月、髭切が残った。彼は目を覚ました時に一人であることを酷く恐れる。最近では近侍が彼と共に夜を過ごすようになり、近侍の代わりに、それを今剣が担うことも多くあった。
そして起床後の彼がまずやるのは私を探すことなので、私は彼よりも早く起きて身支度を整えてなければいけない。緊張の朝だ。

「どうすれば、よいのだろうなあ……」

まさか元同級生に寝顔を見守られるとは、昔の彼は思ってもみなかっただろう。そう意識を逸らしていたところで、三日月がつい漏らしてしまったかのように呟く。
髭切はちらと視線を上げたのみで、何も言わなかった。私も答えがわかるわけではないので、数秒の沈黙の後「そうですね」と返す外ない。
どうしたもんか。このままじゃいけないのはわかる。直後と比べれば、落ち着いた様子の日も増えた。それでもふとした瞬間、絶望に足をすくわれる。このままその時その時の対処だけをしていれば、その内彼は完全に壊れるだろう。

就任直後の時は、絶望よりも諦念が勝っていたそうだ。どうしようもない、仕方ない。だから審神者業をやるしかない。そうやって、例え誤魔化しだとしても、次第にどうにかなっていった。
でも今回はだめだ。上げて、落とされた。何よりも絶望が勝っている。誰が宥めても、気晴らしをさせても、その場しのぎにしかならない。私ですら、彼を心から落ち着かせることは出来ていない。
逆にこれ私がいなかった方がスムーズに事が進んだのでは? と思うが、そもそも私がいなければ彼は審神者になっていないので、この考えはここで終了だ。いるもんはいるのだ、仕方ない。

――たった一月でまあ、随分と痩せたね、審神者は。何か好物でも作ってやったらどうだい? ほら、給食のメニューとかさ。

こうやって不意に、耳元で女が囁いてくるのにも慣れてきた。いちいち言ってくることがそれなりに的確なのがまた、なんとも複雑だ。
しかしなるほど、給食か。中学まではそうだったが、はて、彼は何を好いていたっけか。唐突にううんとうなり始めた私を、髭切が首をかしげて見やる。

「どうしたの、主。君も泣きたいのかい?」
「いや別に。ちょっとね、記憶を探っているところです」

まさか泣きたいのかと問われるとは思わなかった。私が悲しむタイミングを逃したこと、髭切は、そして多分膝丸も、察しているのかもしれない。
それとなく彼と離すようあちこちに連れ回していたのはそれか、と今更に気が付いた。私も私で、いろいろ切羽詰まっていたらしい。

ひとまずそれは置いといて、給食だ。なんかのメニューの時には率先して余り物じゃんけんに参加していたはずである。私も時々参加していたから、うっすら覚えている。
何だったかなあ、とそのまま数分うんうんうなり続けて、ようやくハッと閃いた。

「ミートソーススパゲティと七夕ゼリーだ……! あー……うーん……ソフト麺はまあいいとして、七夕ゼリー再現出来るかなあ……」

というか全然七夕とかいう時期じゃないんだが、なんならクリスマスのが近いくらいだが、まあいいとしよう。
ミートソースのスパゲティなら付け合わせの野菜はあれそれで、スープも欲しいな、ソフト麺を作ることから考えると今日晩よりは明日の昼辺りに合わせるべきか……と考えをまとめ終えたところで、すっくと立ち上がる。

「ごめんなさい三日月さん、少し主を任せます。もし起きた時に私を呼ぶようだったら、髭切を使ってください。髭切、私は台所行ってくるから、ここで待ってて。台所には膝丸もいるし、いいですよね?」
「うーん、弟は何か言うかもしれないけど、まあいいんじゃないかな。その、七夕ぜりい? というの、僕も楽しみにしているよ」
「ありがとう、善処します」

軽く頭を下げてから彼の自室を後にし、自分の部屋で携帯端末をひっつかんでから各々のレシピを漁りつつ、母屋の台所へ向かう。
途中今剣と鉢合わせて、諸々の説明をしながら並んで歩いた。

「でも、もとのせかいをおもいおこさせるようなものをつくって、だいじょうぶなのですか? よけいにこいねがうきっかけとしてしまうだけなのでは」
「うーん、そこのとこは行き当たりばったりというか、やってみなきゃわかんないですけど……多分、大丈夫だと思います」

なぜ? と今剣が首をかしげる。仕草は髭切とあんま変わらないけれど、可愛さは別種のものだ。

「彼は多分、忘れられてしまったこと以上に、自分が忘れてしまうことも恐れてると思うんですよ。五年以上経った、あー……とはいえ季節が違ったから、もしかしたら正確に五年とは限らないですけど……とにかくあっちに戻った時、恋人の顔を一瞬わからなかったようでした。それで余計にショックだったんじゃないかなと。
 私を頼るのも、それが理由だと思います。私を覚えている、私も彼を覚えている、だから大丈夫。小学生の時はああだったとか、中学の時の先生がどうだったとか、そういう話を何度もするんです。あれ、忘れたくないからでしょう?」
「だから、おさないころにこのんでいたものをみて、たべれば、あるじさまがおちついてくれる、と?」
「とりあえずは、そう思います。やっぱり、その場しのぎにしかならないかもですけど」

この件に関しては、元を正せば今剣が原因な気もするんだがなあ、と内心思いはするが、勿論口には出さない。
きっと今剣は、私には怖いとしか思えない程の愛情を、神様が人の子に向ける自由気ままな愛情を、彼に抱いている。それは、きっと、と言ったものの、ほぼ事実だと確信していた。
その上で、私の存在を許しているのだ。嫉妬で呪い殺してもおかしくないくらいの距離に、私はいるというのに。

やぶ蛇になりたくないし、触らぬ神に祟りなしだ。

「ソフト麺は多分大丈夫かと思います。七夕ゼリーは何度か試作する必要があるので、今剣さん、手助けと試食をお願いしてもいいですか?」
「わーい、ししょくですね、まかせてください! はたらかざるものくうべからず、ですからね。おてつだいもしてあげます!」
「ありがとうございます。きっと主も喜んでくれますよね」
「もちろんです!」

台所に辿り着き、今週の料理当番組にも事情を説明する。その後は注文し届いていた材料を仕分けて、一日かけて試作を続けた。
今剣だけでなく料理当番であった前田と小夜も手伝ってくれ、記憶に頼るしかなかった割に、ああこれこんな感じの味だった〜! と懐かしめるレベルの七夕ゼリーが完成した。一旦彼が起きたことで席を離れ、夕食なんかも挟んだとはいえ、その頃にはとっくに夜の十時を過ぎていた。

それでもきっと、彼はこれを食べて懐かしんでくれるだろう。敢えて多く作り、余り物じゃんけんもしてみればいいかもしれない。
もうおなかいっぱいです、とお腹をさする今剣に、にこりと嫌味なく笑みを向ける。

どんなに恐ろしくとも、どんなに、人間の目から見て歪んだものに見えていても。
今剣が彼に向けるそれは、確かに愛なのだ。誰が否定できるわけもない、純粋すぎる愛情。

「こんなにおいしいものができたのです。あるじさま、きっとおおよろこびでぜりいをたべてくれますよね!」
「はい、もちろん。今剣さんの愛情たっぷりのゼリーですもん」
「えへへ、補佐はよくわかってますね!」

こんなにも素直な笑顔を、誰も、否定出来ようはずがないんだ。

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