愛及屋烏 [45/56] そっと障子を開けた今剣は、今にも泣きそうな顔をしていた。彼が顔を青ざめさせて、いや、ちが、と言葉にならない言い訳を並べる。私はなんとなく嫌な予感を抱えたまま、今剣を見つめていた。 何だろう、この感覚。 目に見えるのは、主との別れを嫌がる、あるいは悲しむ今剣の姿だ。それでも帰りたいのなら、どうにか帰してあげたいと願う、健気な刀剣男士のはずだ。 「ほんとうは、これだけのかずのとうけんだんしがいるのなら、あるじさまをかえしてあげるくらい、わけないのです。でもぼくたちは、あるじさまとずっといっしょがよくて、だから、だまってて、ごめんなさい」 「今剣……それ、本当に……」 「ほんとうです。いまは補佐のれいりょくがあるから、なおかんたんなことなんです。だから、あるじさま、ほんとうにかえりたいのなら、ぼくがつれていってあげます。だれにももんくはいわせません。あるじさまはほんとうに、じぶんのせかいに、かえりたいですか?」 じわ、じわ、と内側から何かが滲む感触。これに頷いちゃいけないと、思っているのに、言えなかった。胸元をぎゅうと握りしめ、黙り込む彼を見つめる。 彼は、頷いた。頼む、今剣と頭を下げた。ごめん、俺、やっぱ主なんて噐じゃねえわ、と苦笑した。 「補佐も、いっしょに、かえりますか」 「……私は、戻るも残るも、彼と一緒だと、決めているから」 「そうですよね」 今剣におかしなところはない。なのに、この、違和感は何だ? 笑顔だって悲しげで、けれど決意をした柔らかいものなのに、どうして私はそれに怯えている。 違和感は消せないどころか、どんどん大きくなっていくばかりなのに、状況はそれ以上の早さで進んでいく。 彼が私の手を取り、今剣が繋がれた私たちの手を撫でた瞬間、私の視界に映る景色は、一変していた。 そこは、大学の構内のようだった。満開の桜の中、若い学生たちがきゃらきゃらと笑いながら過ぎ去っていく。遠くからは何かの部活かサークルだろうか、男らしいかけ声も響いていた。 いつの間にか私たちは靴を履いていて、格好も、二人共ジャージだったけれど、まあ浮いてなくもない……? か……? くらいの、微妙なところだ。 私が状況把握に努めていたところで、ぎゅっ、と握られていた手に力がこもる。 「彼女だ」 「はぇ?」 つい、変な声が出た。彼は一点を見つめている。視線を追えば、三人ほどで固まって歩く、女の子たちがいた。三人ともが、読モにいそうだな、といった感じのかわいい子である。大学に一定数いる、ギャルっぽいかわいこちゃんというか。 なるほど彼の好きそうな感じだ、と彼の好みなんか知らないのに漠然と思った。中学の時の元カノに雰囲気が似ていたからかもしれない。 「彼女だ、俺の、うわ、おれ、まじで帰ってきて……っ! ちょ、ごめん俺、声かけてくる!」 「お、おう、いってら」 彼はするりと私から手を離し、彼女だという女の子の元へと駆け出した。なんとなく離された自身の手を見下ろしてから、近くのベンチに腰掛け、彼の様子を見守る。 その時、何かが私の耳元に触れた。虫かと思って両肩を跳ねさせながら、手で払う。けれどその感触は離れないままで、そしてすぐに、それは指のような感触だと気が付いた。 えっこわい、普通にこわい。手で払っても何も触れなかったってことは誰もいないってことだし、思い切って振り返ってみても、案の定誰もいなかった。でも、耳元に誰かが触れる感触は消えない。なにこれめっちゃこわい。 全力で怯えきっていた私が、我に返ったのは、その何かが私の耳元で囁いたからだ。 今にも途切れそうな、かすかな声だった。それでも、聞き間違えるはずがない。この声を、忘れるはずがない。 ――君の帰る場所は、もうここにはないよ。早くお帰り、君の世界へ。彼が要るなら、王子様も一緒にね。 ああそれは、背筋がぞくりとするほどに、ハスキーな声だった。 ゆるりと彼へ視線を戻す。彼は女の子の内一人と何かを話していたようだが、女の子の方は、ずっと戸惑ったような表情をしていた。明らかに困っているし、友だちだろう両側の子たちが女の子の手を引いている。 ねえこの人なんかやばいよ、早く行こう? 学生課の人、呼んだ方がいいんじゃない? そんな声が聞こえてきて、何かを身振り手振りで説明していたのか、胸元まで上がっていた彼の手が、力なく落ちた。 ――ほら、帰った方がいいだろう? 弾かれるように立ち上がり、もう一度だけ背後に誰も居ないことを確認してから、私は彼の元へと走った。魂が抜けたようになっている彼の隣に立ち、ごめんなさい人違いをしたみたいで、と早口に言い訳しながら、彼の腕を引いて踵を返した。 どこに行けばいいのかはわからないけれど、走った。彼は呆然としたまま、半ば引きずられるようにして、私の後ろを着いてきている。 左手首の腕輪は、まだ在った。新たに付けたネックレスも、勿論両耳のピアスもそのままだ。 私は腕輪とネックレスに、わからないなりに必死に霊力を送っていた。膝丸、髭切。私の刀剣男士。時代を超えても、私と繋がったままでいてくれるもの。 一陣の風が吹いた。 桜の花びらが舞って、私の視界には、あの本丸が、映っている。 帰ってきた、とようやく理解したのは、焦った様子の膝丸と髭切が私を抱き留めた瞬間だった。 ――おかえり、お姫様。君たちの居場所はもう、この世界にしかないんだ。だって君たちは、ねえ、ほら、少し考えればわかるだろう? 耳元の声はやまない。後ろで彼は、何で、俺、だって、と何かを呟き続けている。……心が折れてしまったのかもしれない。 そんな彼に気が付いた山姥切が、そして鶴丸と薬研とが彼に駆け寄ってくる中、今剣だけはじっと、膝丸と髭切に支えられる私を見つめていた。 ゆっくり、唇が動く。 私は、あの時感じていた違和感が、嫌な予感が、何故だったのかを悟った。そしてそれを知れたのはこの耳元の声の所為であることも、今になってようやく理解する。 今剣は、彼を欺いていた。帰せるのは事実だ。けれど今剣に、彼を手放すつもりなんてものは、これっぽっちもなかった。 あるじさまのおうちは、ここにしかなかったでしょう。 笑いはしない。ただ事実のみを告げるように、そしてどこか悲しそうに、今剣は呟いていた。実際に口に出していたのかもしれない。ただ、唇を動かしただけかもしれない。 そればかりはこの距離じゃ判別できなくて、でも、特に判別する必要もなかった。 私はただただ、怯えていた。両側の膝丸と、髭切とを見上げる。安堵の滲み出る表情だった。帰ってきてくれてよかったと、口にしなくても、全身が物語っていた。 そこまで安心する理由なんて、ねえ、一つしかないじゃない。 ――君も審神者も、消えるべき人間だったんだよ。それをわたしが、すくいあげたんだ。ほら、優しいだろう? わたしを命の恩人と想っておくれよ、お姫様。 声が、鼓膜に貼り付く。 ああ本当に、彼は、審神者になるべくしてなったのだ。私は、霊力供給機という名の補佐に、なるべくしてなったのだ。それをようやく実感した。 そして何より、人の執念の、神の愛情の恐ろしさを、思い知った。 |