羨望 [38/56]


件の本丸に到着した時、髭切は、存外落ち着いているな、とぼんやり思った。
主である審神者が攫われ、その救出に補佐が赴いた。そんな状況なのだからきっと焦燥に満ち、鬼のように殺気立っているのだろうと思っていたのだけれど、刀剣男士たちは思いの外冷静だった。
刀剣男士同士で刀装の確認などを行っているもの、政府の人間と今後の流れを話し合っているもの、ただひたすらに集中しているもの、手入れを終えた後の己自身を見直しているもの。様々に行動しているが、怒り狂っているようなものの姿は見えない。
そこに在るのは、ただ静かな闘志だった。

「兄者!?」

そうやって髭切が辺りを眺めていれば、背後から己を呼ぶ驚愕混じりの声がする。振り向いてからええと、と言い淀んで、とりあえず「やあ」と軽く手を挙げた。
太刀にしては速い足で駆け寄ってくる弟の首には、襟で見えづらいながらも首輪が付けられている。チョーカーと呼ばれる呪具は、補佐と膝丸とを繋ぐ、正しく首輪だった。
僅かに目を細めている内に、膝丸は髭切の正面に辿り着いている。

「どうして、兄者がここに」

膝丸の疑問はもっともだった。

この髭切は、政府の施設内、膝丸も保管されていた未契約刀剣保管室にしまわれていた髭切である。膝丸が補佐と契約した時、僕は美食家だから、と補佐を選ばなかった髭切だ。
その髭切が、何故刀剣男士としての姿を持ち、審神者も補佐も不在となった本丸に現れたのか。

「お前が関わっているからか、政府の子が事情を教えてくれてね。別に僕は――あの、あんまり美味しくなさそうな子にも、勿論隣にいた審神者にも興味はなかったんだけど。ずうっとあそこに居るのも暇だから、ちょっと助けてあげようかなと思ったんだ。それで政府の術者に、一時的に顕現してもらったのさ」
「あ、兄者……!」
「こういう時にも泣くのかい? そりゃ、確かに……ええと……お前とは、居た本丸も違うし、仰いだ主も違ったけれど。あの部屋でずっと、話し相手になってくれただろう。元より弟であることに変わりはないのだし、気にすることないよ」

柔らかな表情で、髭切は膝丸へと笑みを向けた。
同じ本丸で成長した兄弟ではない。同じ主に顕現された兄弟でもない。それでも、髭切と膝丸は兄弟として存在していた。保管室に居た髭切と膝丸は自身らのみであったし、互いの同胞も居なかったため、霊体となりながらも時折話をしていた。膝丸は、髭切を兄者と慕っていた。
暇だったから、というのも勿論事実なのだが、髭切にとってはこの状況下で膝丸の助太刀となる理由は、それで充分だったのだ。

感極まって涙ぐむ弟に、それどころじゃないだろう、と苦笑を滲ませる。はっと気が付いて目元を拭いながら「な、泣いてはないぞ!」と今更の言い訳をし、そうして、膝丸は深く頭を下げた。

「理由は何であれ、我が主の助けとなってくれること、感謝する。兄者」
「いいんだよ。本当はちょっぴり、面白そうだな、って思って来たんだから」
「それでもだ。ありがとう、兄者」

顔を上げた膝丸は、真剣な表情に戻っていた。心の隅っこの方で、いいなあ、と髭切は思う。
主のため。刀剣男士として己を揮ってくれる主だけを、一筋に見つめ続けられる環境。そんな主と、再び出会えた奇跡。一人目の主、二人目の主、どちらがより良いか、という話ではない。どちらも大切で、どちらも、自身の命を顧みずに守る価値がある。
髭切には、もう、そんな主が居ない。

「……うん、じゃあ、詳しい状況をちゃんと教えてくれないかな。補佐のあの子は、もう行ってしまったのだろう? 僕以外にも政府から喚ばれた刀剣男士が居るようだし、この本丸の刀剣男士も力不足ではないようだけど、どうやって審神者と補佐を連れ帰るつもりなの?」

過去を想うことは止め、現在へと意識を向ける。
髭切の問いに膝丸は、歩きがてら説明すると踵を返した。この本丸の刀剣男士に、髭切を会わせるつもりのようだ。

道中での説明に出てきた策は、なるほど、まあ最善策ではないが、出来なくもないだろうな、と思う程度のものだった。なんなら次善策ですらないだろうが、これをあの補佐が考え、実行までしてしまったのだと聞くと俄然興味が湧いてくる。
勿論補佐に対しては、蛮勇にも限度があるだろうとも感じた。あれはただの人間だ。ただ莫大な、限度なんてないような霊力を持っただけの、なのにそれを思うがまま用いることすら出来ない、か弱い存在だ。自由に己の霊力を用いられる分、霊力の絶対量が遙かに補佐から劣っていても、審神者の方が余程強いくらいだろう。
それでもあの子は、その次善策ですらない策を己が手で、足で、実行した。それを蛮勇と言わずして、何と言う? 愚行となら、言い換えてもいいかもしれない。
よく弟が許したものだ。護衛役という立場でありながら、敵陣へと行かせたものだ。

もしも自分が護衛役として、膝丸と共に契約をしていたら、どうしただろうか。
一瞬考えはしたものの、有り得ない話だ。髭切はすぐに思考をやめた。


 *


審神者と補佐の救出に向かうのは、三部隊計十八口の刀剣男士だ。
応援に駆けつけた審神者の護衛から五口、政府の刀剣から髭切も含め七口、この本丸の刀剣から六口。
護衛刀剣は歌仙、同田貫、物吉、三日月、薬研。政府刀剣は髭切、平野、前田、小夜、鯰尾、にっかり青江、石切丸。この本丸からは膝丸、鶴丸、蛍丸、山姥切、和泉守、堀川。同位体がいないのは、指示を出す時に混乱を招かないためだ。
総指揮はこの本丸の審神者の先輩にあたる男審神者が執ることとなり、残り三名の審神者が戦場での指揮等を行う。三人ともが女であったが、刀剣男士を見る限り不安を抱く必要はなさそうだ。

髭切は膝丸と同じ部隊に配属され、あとは補佐からの合図を待つのみとなった。
しかし合図が必ず来るとは限らず、その場合は時計の長針が十二を示したところで出陣することとなっている。

存外落ち着いている、と髭切はもう一度思った。
横に並ぶ膝丸は首元に手を添えたまま、じっと正門を見据えている。そこには焦りも怒りもなく、獲物へと狙いをつける蛇のように見えた。

「ねえ、え〜……と、ひ、ひ……?」
「膝丸だ、兄者」
「そう、膝丸。膝丸の主が立てた策で、つつがなく審神者も補佐も救出し、僕たちから被害も出なければ」

周囲から見れば、場違いに思えただろう。髭切はどこか楽しげに、にこにこと頬を緩ませている。
膝丸は真剣な表情のまま、そんな兄を見つめた。

「それだけ優秀な主、ということだと思うんだ。なら、多少美味しそうな霊力じゃなくても、僕も契約したいなあ」
「……そうだな、主な仕事は本丸の掃除、洗濯、食器洗いで、稀に畑仕事や馬当番を手伝うことになるぞ。あとは主の傍に控えるのみだ。兄者には退屈かもしれん」
「おや、もう決まったことのように話すんだね」

ピリ、と見慣れない霊力が髭切の頬を撫でる。
膝丸が首元に添えていた手を離した。ゆるりと視線を正門へ向け、審神者たちが頷き合い、開門と男審神者の声が響く。
必要以上に急ぐこともなく一歩を踏み出した膝丸は、挑発的にも思える笑みで、髭切へと振り返った。

「俺が主と認めた人間だ。失敗など、万に一つもない」

その表情を見て、やっぱり髭切は、いいなあと心の中で思った。

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