陥穽 [29/56]


その日、膝丸は主である彼女と共に洗濯の手伝いをしていた。数時間かけて四十数人分の衣類等を干し終え、洗濯物が入っていた籠を洗濯室に戻すため、母屋へと庭を進む。

膝丸にとって彼女は仮の主という状態ではあったが、膝丸は彼女を気に入っていた。膨大な霊力に、一応真面目な性根。心の奥底では色々と澱ませているようだが、それでも明るく振る舞っている。
元の主とは似ても似つかない、どちらかといえば真逆寄りの女。だからこそ、その霊力が清らかに澄んだものではなくとも、膝丸は彼女に惹かれた。それは、好きな食べ物は肉だけどたまに魚を食べると美味しいよね、くらいの惹かれ方だったが。

ともかく、膝丸は彼女を気に入っていたし、主として仰ぐことにも抵抗はまったくなかった。
万一彼女が歴史修正主義者に奪われそうになり、他に手段が何一つなければ、膝丸は彼女を殺さなくてはならない。けれどそんな万一は起こさない、と心に決めていたし、最悪己が折れてでも彼女の命は守り通そうと、覚悟も決めていた。
出来るのなら、彼女にはこの先も、いつまでも笑顔でいてほしい。生きていてほしい。死なせはしない。
彼女がお昼は何でしょうね〜だなんて脳天気に笑っている姿を見ながら、膝丸は真剣に考えていた。

「いぎゃっ!?」

次の瞬間、彼女の姿が消えた。

大概のことには慣れている膝丸も、さすがにびっくりとして手にしていた籠を取り落とす。それがそのままごろごろと転がって、彼女の頭に落ちた。「痛っ……くな、あ痛い!」と声を上げる彼女の身体は、穴のあいた地面の底だ。
ぽっかりと丸くあいた、三メートルほどの穴の底。覗いてみればふわふわとしていそうなクッションが敷かれていて、彼女は籠のぶつかった頭をしきりに撫でていた。たんこぶが出来たのかもしれない。

「すまない、大丈夫か」
「頭以外は……。ていうか落とし穴って」

手を伸ばしても届く距離ではない。膝丸も穴の中に降り、彼女と共に穴から出るのが一番かとも思ったが、三メートルをあのやわいクッションを足場に跳べるかは微妙なところだった。
あまりにも唐突な展開にまだ驚きが引かないのか、膝丸は暫しどうしたものかと彼女を見下ろし続ける。
そうこうしている内に、白い何かが穴の中へひょいと飛び降りた。

「よ、驚いたか? 痛くはなかっただろう」
「頭以外は」
「そいつぁ膝丸の責任だ。後で叱ってやるといい」

白い何かは、鶴丸国永であった。へたり込んでいる彼女の正面に胡座をかき、ちらと鋭い視線を膝丸に向ける。邪魔をしてくれるなよ。そういう意図を孕んだ視線だった。
再び、どうしたものかと膝丸は彼女を見やる。鶴丸と、膝丸とを交互に見てから、彼女は肩を竦めた。

「何もしなくていいです。でもそこにいて」
「……承知した」

鶴丸はどうやら、彼女に話があるようだ。いいのか? と伺うように、けれどどちらでもよさそうな様子で、膝丸を追い払わなくていいのかと問う。
彼女はもう一度膝丸を見上げ、鶴丸に視線を戻してから首を振った。

彼女が何かを隠している、というのは、どうやらこの本丸では周知の事実らしい。その頃には既に膝丸も、彼女は何かしらの秘密を抱えているな、とは気付いていた。その秘密が刀剣男士に関わることだろうとも、話す必要のないものだから、彼女は黙っているんだろうとも。
だから特に聞き出すこともしていなかったのだが、鶴丸はそうではないらしい。ともすれば敵を見るかのような目で、けれど敵意は抱かぬまま、彼女を見据えている。

「もう随分と待った。そろそろネタばらしをしてくれても、いいんじゃあないか?」

彼女の返答は、無言だった。彼女がよくやる癖である、言い淀む間、ではない。無言だ。
彼女は鶴丸と視線を合わしたまま、時折逸らしてはいるが、黙り続けていた。帯刀している鶴丸を相手に、嘘を言えず、誤魔化す術もなく、けれど隠し事を話すつもりもない。だから黙している。

そこまで頑なに言いたくないものなのか、と膝丸は僅かに驚いた。
元の主と比べれば、膝丸と彼女が過ごした時間は格段に短い。けれどそれだけの時間でも、彼女がどうやら刀剣男士全員を好いているだろうことは理解出来た。ある種病的とも思えるほど、無条件に近い好意だ。だからこそ馴染みきらないままでも、この本丸の中で彼女は上手く立ち回れている。
それだけの好意を抱いているのだから、刀剣男士の誰かしらに詰問でもされれば、すぐに口を割ると思っていた。鶴丸もそうであったのか、やや面食らった表情をしている。
数分とも思えるほどの重苦しい沈黙の後、はあ、と鶴丸が深いため息を吐いた。

「なあ、補佐よ。俺はきみを嫌っているわけじゃない。むしろ好きなくらいだ。きみが来てくれたおかげで、此処に居ることを選んでくれたおかげで、俺たちの主は今も審神者を続けられている。感謝してもしきれない、大恩人だ。俺はそんなきみを疑うような真似はしたくないし、こんな真似をして、きみに嫌われたいとも思わない。なんなら肩組み合って酒でも飲みたい程度には、俺はきみを好いている」

詰問は無駄と悟り、情に訴えかける手段に出たらしい。とはいえ本心だと、少なくとも膝丸にはわかる。彼女に伝わっているかどうかはさておき。
彼女は唇を真一文字に引き結び、沈黙を貫いている。

「きみを疑いたくないんだ。何故きみは俺たち刀剣男士を知っている? 刀剣男士の存在を知るのは、審神者か、政府か、歴史修正主義者だけだ。一般の人間が、それも過去の人間が知っているようなもんじゃない。きみはどこで、俺たちの知識を得たんだ。それを答えてくれなきゃあ、俺は、もしかしたらきみは敵なんじゃないか、って疑問を、可能性を、いつまでも持ち続けなきゃならん」

やはり彼女は、答えない。
鶴丸は肩を竦め、二度目のため息を吐いた。

話してしまえばいいものを、と心の隅で膝丸は思う。彼女は歴史修正主義者に関わる人間ではない。つまり敵ではないのだから、残る可能性は審神者か政府の者だけだ。そのどちらかであるならば、ここで、せめて鶴丸と膝丸だけにでも話したって、たいした問題はないだろう。
もしかしたら何か、重大な隠密活動に従事しているのかもしれないが、それでもだ。ここで鶴丸に疑われ続ける状況は、彼女にとっても良くないはず。

「きみが此処に来て、それなりの時が経った。半年は越えたな。きみの境遇は、きみ自身から聞いたわけじゃないが、俺もよく知っている。こちらに来たことできみの存在はなかったことにされ、家族にも友にも忘れられた。主と一緒だ。きみは俺たちに本心をなかなか見せてくれないが、きっと悲しんだ日もあったんだろう。……ああ、忘れられるというのは本当に、可哀相だ」
「――……ッ」

それは悪手だと膝丸は、そして鶴丸自身もすぐに気が付いた。
ずっとだんまりだった彼女の雰囲気が一変し、引き結んでいた唇を噛み締めたかと思えば、怒りか屈辱か、はたまた別の何かかで真っ赤に染めた顔を上げ、今にも鶴丸に掴み掛かりそうな勢いで口を開く。
けれど漏れたのは呼気だけで、まるで糸で雁字搦めにされたかのように数秒静止し、立ち上がりかけた身体から力を抜いた。へたり込み、片手で顔を押さえる様は、わかりやすく動揺を隠そうとしている。
膝丸が、鶴丸が、何かを言おうとするよりも早く。彼女は絞り出すような声で、喉を震わせながら呟いた。

「かわいそうなんかじゃ、ない」

己に言い聞かせているような、言葉だった。

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