嫉妬 [13/56] 燭台切がふと離れへ視線を向けたのは、何やら良い香りが漂ってきたからだ。きゅうと腹が震えるような、美味しそうな匂いだった。 離れに暮らしているのは、己の主と、補佐となった彼女の二人である。今日も執務室の障子を開け放して、主は仕事をしている。近侍は博多であり、今は出陣指示の最中だった。そこに彼女の姿はない。 視線を戻した後も、やはり良い香りはかすかに漂っていた。何の匂いだろう。くん、と鼻をひくつかせる。 燭台切が嗅いだことのない匂いだ。けれど小麦を焼いたような匂いに感じた。匂いだけで口元が緩んでしまうような、やわらかく甘い、惹かれる香り。 好奇心と知識欲に負けた燭台切は、離れへと向かう。途中、厨でお茶と茶菓子を用意して、渡り廊下を通り過ぎ、執務室の前で立ち止まった。 「お疲れ様、主。博多くん」 「ん、もうそんな時間か」 そろそろおやつ時なのは、燭台切にとって丁度良かった。出陣も一区切りついたところらしく、主がうなり声をあげながら伸びをする。 机に盆を置きながら、そういえばと今し方気付いたかのように、ずっと気になっていた匂いの正体を問いかけた。 「なんだか良い匂いがするけど、何か作ったの?」 主が作ったのか、という体で問うたが、もちろん燭台切はそうじゃないことを知っていた。 燭台切たちの主は、滅多に料理をしない。したとしても簡単な、茹でるだけ、焼くだけ、といった料理ばかりで、味付けも大雑把だから作るたびに味が変わった。いわゆるメシマズ、ではないが、特別に美味しいわけでもない。 本人曰く「食べるのは好きなんだが」であり、だからこそこの本丸の刀剣男士は、主を喜ばせようとどんどん知識を増やし、技術を得ていったのである。 とはいえ主が和食派だったのもあり、洋食を作った機会は、少なくとも燭台切にはないのだが。 燭台切の問いかけに、主は頷くか首を振るかの中間のような反応を示し、引き戸の向こう側へ視線を向けた。 物音がする辺り、きっとそこに彼女がいるのだろう。やはり何かしらを作っているのは彼女だったようだ。何を作っているのか、この良い匂いの正体は何なのか。それらも大いに気になるが、ほんの僅か、燭台切は警戒していた。 「パン焼いてんだよ。そんなに食いてえんなら買った方が早いじゃねえかって言ったんだけどな」 私が食べたいのはパンじゃなくて私が焼いたパンなんだよ! だそうだ。そう言って笑った主は、可笑しそうにしながらも、楽しそうだった。 パン。もちろん知識としては知っているが、燭台切はそれを食べたことがない。 前述の通り主が和食派だったから、本丸の食事は朝から晩まで和食だし、おやつも全て和菓子だった。そっちの方が刀剣男士としても馴染み深かったし、和食だけに限定してもアレンジの手法はいくらでもある。これといって洋食の類に手を出す理由がなかったのだ。 どうやらそれが、彼女はお気に召さなかったらしい。 「とりあえず出来たんだけど、ちょっと味見――……」 静かに引き戸が開いて、一口大に切られたパンを皿に盛った彼女が現れた。燭台切を目にとめ、小さく頭を下げる。 ふわふわと美味しそうなのが、遠目に見てもすぐにわかった。どうやら食パンと呼ばれるものを作ったらしい。 「へえ、美味そうに作るな。店のみたいだ」 「ありがとう。……お二人も、食べてみますか?」 燭台切の視線の意味を察したのだろう。頭の良い子だと感じながら、燭台切は頷いた。主より先に差し出されたそれを、数秒眺めてから口に含む。博多はパンを手にしたままその様子を見守っていた。 主が何も言わないのは、彼も理解していたからだろう。 これは毒味だ。 燭台切は、否、燭台切に限らずこの本丸の刀剣男士のほとんどは、まだ彼女を心底から信用していなかった。主に仇なすものだと思っている、とまではいかない。けれど、信用に足るとは思わない。 だから警戒していた。だから、何も言わず毒味をした。 そんな状況の中で、疑われていることを煩わしく思う素振りも見せず、悲しむ様子も見せず。ただ当然のように受け入れ燭台切を眺めている。だからこそ余計に、刀剣男士たちは彼女を信用出来なかった。 何も知らない、主と同じ立場の人間にしては、慣れすぎているんだ。 「どうですか」 淡々とした、けれどかすかに不安の滲む声だった。 燭台切は食パンを飲み込み、うんと頷く。――美味しかった。警戒も違和感も忘れて、ふにゃりと頬を緩めてしまうような、想像通りの美味しさだった。ふんわりと柔らかく、ほんのりと甘い。饅頭とはまた違った食感の、淡泊だが噛めば噛むほどにもう一口が欲しくなってくる味。 「美味しいよ。食パン、って言うんだっけ? 初めて食べたんだ。こんなにも美味しいものだったんだね」 「そしたら、俺も。いただきます」 「俺も。パン食うの久しぶりだなあ」 ぱくり、ぱくり。博多と主が後に続く。うまかあ! と博多が満面の笑みを見せて、主も、久々に食べると美味えなあ! と顔を綻ばせた。 いつも、誰かしらが作ったご飯を美味いと食べる時とは、また違った笑顔だった。 あっという間に皿は空になり、彼女はほっとした表情をしている。 「明日の朝はサンドイッチにするか。ああでも、全員分のパン焼くのはめんどくせえかな」 「母屋のオーブンなら、一気に焼けそうだとは思うけど……全員分のサンドイッチとなると、ちょっと厳しいかな」 元々当番じゃないし、予定を乱すのは悪いから。申し訳なさそうに彼女は苦笑して、引き戸の向こうに戻っていった。 「次の料理番の時、僕が作ろうか? サンドイッチ」 また何やら作業をしているらしい音を聞きつつ、主に問いかける。少し悩んだ風の主は、けれど、首を左右に振った。 まさか断られるとは思わなかったから、少し面食らう。どうしてと返すより早く、主は引き戸の向こうに視線を向けながら告げた。 「いいんだよ。俺が食べたいサンドイッチは、あいつの作ったサンドイッチだから」 ああ、もちろん、格好悪い自覚はある。心が狭いとも思う。 それでも、神とは基本的に独占欲が強い存在だから、きっと仕方のないことで。 燭台切が、この本丸の刀剣男士が彼女を本心から受け入れられないのは、少なからず彼女に嫉妬しているから、というのもあるんだろう。 主の唯一。心の拠り所。刀剣男士ではなれなかった立場。五年を共にした初期刀や初鍛刀であっても、座れなかった場所。 ぽんと現れてあっという間に座ってしまった。そんな彼女に嫉妬をするなという方が、どだい無理な話だった。 |