三日月宗近は、実のところ現状を好ましく思っていた。
己だけを自分の刀剣だと認識し、主たろうとしている人の子。神と人間、主と従者として互いに弁え、尊重し合おうと言った女の姿は凛々しく、その霊力はとても清らかだった。
その女が己だけのものだという事実が、三日月宗近にとっては心地が良かった。

しかし、現状のままではいけないと彼は理解をしている。
女はひどく悩み、時に傷付いていた。審神者であり、刀剣男士の主となるべき女は、この本丸の刀剣たちに拒絶されている。真に女を受け入れている刀剣男士は、三日月宗近のみだ。その現状が、女の心を病ませていた。
次第に良くなりつつあるのだろう状況もまた、女を悩ませる。時に微笑み、唇を噛み、喚き、涙を流す女を、三日月宗近はますます気に入っていた。その泣き顔を正面からじっくりと眺められなかったのが残念だが、三日月宗近は女の涙を、とても愛おしく思ったのだ。

哀れな人の子、幼い子。
この本丸に住む刀剣たちは、刀で在ったが故に人の心に疎い。だからこそこの人の子は、大人であろうとした。童のように嘆き、八つ当たりをする神を相手に、それを受け止め、受け流すことの出来る大人でいようとした。
結果、言うつもりのない言葉を吐き、流すつもりのない涙を溢れさせている。
ああ、哀れで愛しい人の子よ。そなたが悩み、苦しむ姿はこんなにも愛らしい。人の心が震える様は、こんなにも美しい。


――三日月宗近は、人間が好きだった。笑い、泣き、怒り、苦しんで、喜んで、容易く死に絶えるくせに、時にその命を自ら放り捨てる。そんな人間が、大好きだった。

故に三日月宗近は、審神者の娘に肩入れをする。
主という理由だけでなく、また人間だからという理由だけでもない。元から、三日月宗近は人間が好きだった。その思いは、審神者の娘を見続けたことにより更に増した。
今や、三日月宗近は人間ではなく、目の前の女を愛していた。
それは、男が女を想う気持ちでも、親が子に向ける気持ちでもない。
神が人へと注ぐ、清らかすぎる愛情だった。



三日月宗近の視線の先には、俯く審神者と、頭を垂れる一期一振、薬研藤四郎の姿がある。審神者の傍らでは、式神であるこんのすけが審神者の背中を撫で続けていた。
三日月宗近は、こんのすけのことも好ましく想っている。人に作られた式神から、少しずつ外れつつある存在を。

審神者は沈黙したまま、目前の刀剣にぶつけられた言葉に返答することが出来ない。しないのではなく、出来ないのだ。
どう答えるべきか解らず――いや、解っていても、それを口に出すほどの勇気はなく――唇を噛むことしか出来ない。
人間は弱い。特に、この審神者の心はとても弱く、脆い。故に審神者は刀剣の誠意に、真っ直ぐ向き合うことが出来ない。

三日月宗近は、暫し迷う。手助けをしてやるべきか、否か。審神者が悩む姿は、いつまで見ていても見飽きない。今も頭の中で幾つもの言葉を考えては、打ち消しているのだろう。
唇を噛み、瞳を震わせる審神者の姿は、三日月宗近にとって愛でるべきものだ。……しかし。三日月宗近は審神者の他の顔も好きだった。
悪夢に魘される顔。あの日、三日月宗近の作った拙い朝食を美味しいと食べていた顔。端末を眺めている時の、何を考えているかわからない横顔。こんのすけや三日月宗近と会話し、呆れたように見せた顔。報告書をまとめている時の疲れたような顔。ふとした時の、穏やかな微笑み。
このまま放っておけば、審神者は他の表情を見せなくなるかもしれない。特に、あの穏やかな笑みは見せなくなるだろう。それは、三日月宗近にとっても面白くない。
だから、手を出してやることにした。このままどれだけ待とうと、審神者はこの刀剣が望む答えは出せない。出さない。ならば、時間を与えてやればいい。一人だけで静かに、考えられる時間を。

「一期一振、薬研藤四郎。主は今、深く考え込んでおる。この場で幾ら待とうと、すぐに答えは出ぬであろう。暫し、待ってやってはくれぬか」

主も、ぬしらがこの場へ来るのを待っておったのだから。
半ば皮肉気味に笑みを向ければ、一期一振と薬研藤四郎はゆっくりと顔を上げる。そして、審神者が俯いたままであることに気が付くと、どこか悔しそうに顔を顰めた。悲哀の混じった表情で、視線を合わせてから……頷く。

「そうだな、三日後の、今宵と同じ時刻。主と共に母屋へ参ろう。その場でこの先どうするか、とくと話し合って決めるがよい」

三日月宗近の言葉によって、その日の対話は終わりを告げた。一期一振と薬研藤四郎は、名残惜しそうに母屋へと戻っていく。三日月宗近と審神者、こんのすけは、開け放たれたままの障子の傍で、向かい合っていた。
三つの影を、室内灯と三日月が淡く照らす。

「……ありがとうございます、三日月。私はどうするべきか、解っているはずなのに言えませんでした。貴方が時間を与えてくれなければ、また泣いてしまったかもしれません」
「ふむ、それは惜しいことをした。次は正面から、しかと主の泣き顔を拝ませてもらおうと思っていたのだが」
「勘弁してください」

こんのすけも、ありがとう、と。審神者はこんのすけの毛並みをやわく撫でる。こんのすけは満足そうにそれを受け入れ、けれどすぐに、哀しげに尻尾を揺らした。

「主さま、こんのすけは、主さまが大好きでございます。主さまが苦しんでいらっしゃると、わたしも苦しくなるのです。だからどうか主さま、笑ってください。そのためならこのこんのすけ、何でも致します!」
「……うん、ありがとう。私もこんのすけが大好きだよ」
「主、俺のことも好きか?」

え、と審神者が固まる。
俺は?俺は?と己を指さす三日月宗近の姿に苦笑して、少しの逡巡の後に審神者は小さく吹き出した。

「三日月のことも、大好きですよ」
「そうか。俺も主を愛しておるぞ」
「地味に重いですね」

もう一度苦笑する審神者に、三日月宗近は目を細めて笑う。
丸い頭を優しい手つきで撫でてやれば、審神者は僅かに慌てながらも、大人しくそれを受け入れた。三日月宗近が審神者を撫で、審神者がこんのすけを撫で、こんのすけは二人の間で尻尾を揺らしている。

まるで家族のようではないか。三日月宗近は、心の中で呟き、笑う。
家族ごっこに興じる刀たちを心の隅で嗤っていたが、なるほど確かに、これは悪くない。父と母と子、親と子と孫。形はどうでもいいが、この姿はまさしく家族だ。この離れに住む三人だけで、既に家族は出来上がっているではないか。


三日月宗近は、現状を好ましく思う。そして未だ来ぬ先を、疎ましく思う。
此処に居る三人だけでは駄目なのか。一度は主を拒絶した者たちを赦し、彼奴らとも家族になるのか。主が、彼奴らの主にもなるのか。
嗚呼、考えただけで眉を顰めてしまう。そのような未来は、来ずともよい。

主よ、主。哀れで愛しい人の子よ。主には俺だけで、充分であろう?主の家族は、俺とこんのすけだけで良いではないか。

しかし、三日月宗近はその想いを口にしない。人の子の生をただ見守るのもまた、神だからだ。
三日月宗近は、主である女の答えを知っている。だから見守る。見守っていればそれだけで、己の望む道へ進むと知っているから、これ以上の手は出さない。

空と、ふたつの瞳の中とに浮かぶ三日月が、微かに翳るのをこんのすけだけが見つめていた。

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