――人間は、他人が哀しんでいたら、自分は哀しんじゃいけねえのか。

きっと、そんなことはないんだろう。
誰が哀しんでいても、その哀しみが自分より深くとも、自分の哀しみと他人の哀しみに関係はない。感情の尺度なんて、誰にも決められないんだ。
誰かが自分よりずっと哀しんでいたとしても、それは自分が哀しんではいけない、という理由にはならない。
でも、例えるなら。祖父や祖母が亡くなる哀しみと、両親が亡くなる哀しみには、差があるんじゃないかと思う。実の兄が亡くなる哀しみと、兄の妻……義姉が亡くなる哀しみにも、差はあるだろう。
量というよりは、質の違いな気がする。私はそう思うから、彼らの前で叔父の死を哀しめない。哀しまない。
主を喪う哀しみと、叔父を喪う哀しみだって、きっと違う。

ぼんやりと考えながら、月明かりに照らされる廊下を歩く。ふと漂ってきた酒の香りに俯かせていた顔を上げれば、渡り廊下に一人の少年が座っていた。着流し姿で、傍らにはお猪口と徳利が置かれている。

「……こんな夜更けに女一人で散歩とは、如何なものかね」

薬研、藤四郎。
わざわざ、こんなところで晩酌をしているんだ。きっと、私が通るのを待っていたんだろう。もしかして、私が落としたものを拾ったのは、彼なのかもしれない。
期待と不安に少しばかり眉を顰める私を見上げ、薬研藤四郎は「一杯どうだい?」と徳利を掲げて見せる。私はゆっくりと、首を左右に振った。そりゃそうだよななんて、薬研藤四郎は苦笑する。

「昨日、落とし物をしただろう」
「拾って、くださったんですか?」

願っていた言葉に、やや食い気味の反応をしてしまった。薬研藤四郎はそんな私を再び見上げ、今度は吹き出したように笑う。嫌味な笑い方では、なかった。
しかし直後、彼の眉尻が申し訳なさそうに下がる。

「俺じゃなくて、いち兄がな」

ぎゅう、と掌に力がこもった。手入れを終えた後の、一期一振の表情が脳裏を掠めていく。……あの状態では、きっと、返してはもらえないだろう。私の顔すら、見たくないかもしれない。
薬研藤四郎に頼んで返してもらうことも考えたが、それだけだった。あれは、そんなすぐに諦められるものではない。けれど、その願いを口に出来る程、私の心は強くなかった。
俯き、視線を逸らして「そうですか」とどうにか返答をする。そのまま、彼の後ろを通り過ぎ離れへと戻ろうとした。あれがどこにあるかだけでも分かったんだ。充分だろう。

「おっと、待ってくれ」
「っ、」

ついと服の裾を引っ張られ、つんのめる。転けるとまではいかなかったが、驚いた。彼がそんな引き止め方をするとは、到底思っていなかったからだ。
振り向けば、薬研藤四郎はバツが悪そうに手を離す。その手で乱すように後頭部を掻き、私の方を真っ直ぐに向いて、姿勢を整えた。

「あれは、アンタにとっても、大切な物だろう。だから、絶対に返す。……だが、あれは、俺達にとって……いち兄にとっても、愛おしい物だったんだ。兄弟に代わって謝る。落ちていた物を、勝手に持っていってすまなかった」

そして、と言葉は続く。

「どうか、待ってやって欲しい。いち兄が自分から、アンタのとこに返しに行けるまで。本当に……虫の良い話だとは思う。それでも、いち兄には時間が必要なんだ」

俺っち達は、どうやら弱虫らしいから。
最後だけは茶化すように、彼は泣きそうな顔で笑った。月明かりに映える、とても優しい笑顔だと思った。私に対してじゃない、彼の兄弟に対してだ。でもそこには確かに、きっと、私への優しさもあった。

「……わかりました」

本音を言うなら、今すぐにでも返してもらいたい。彼の言う通り、あれは私にとって大切な物だ。それをうっかりとはいえ落としてしまったのも私だが、肌身離さず持っているくらいには、大切な物なんだ。でもそれは、彼らも同じ。
それならば、私は待とう。人の身として生きた年月は私の方が長いのだから。こと人の心に関しては、二十そこらの人間でも、彼らよりは大人なのだ。

「では、それは貴方たちに預けます。いつか、返してもいいとそう思ったとき。御本人の手で渡しに来るよう、お伝えください」
「ああ、承知した。……すまない」
「いえ。では失礼いたします」

今度こそ、離れへと向かう。もう誰にも引き止められることはなく、私は仄かな明かりが灯る離れに帰ることが出来た。
そうっと入った自室には、三日月が座っていた。三日月の部屋は私の部屋の隣にある。その襖を開けた境の辺りに座り、彼はこちらをじいと見つめていた。

「女子が斯様な夜更けに散歩とは、関心せぬな」
「似たようなことを、二人に言われましたよ」
「主一人だけで奴らと会うて、問題はなかったのか」
「ええまあ、思っていたよりは」

自室の障子を閉め、三日月に視線を落とす。

「眠れないようでしたら、何か飲みますか」
「ははは、主は強いなあ」

まったく意味のわからない答えが返ってきて、目をぱちくりとさせる。私は今、飲み物がいるか否かを問うたはずだ。その返答が何故、私が強いだどうだの話になるんだ。
呆け面の私を、三日月は柔らかく細めた目で見上げる。ちょいちょいと手招かれたので、とりあえず飲み物は要らないんだろうと判断し、彼の前に腰を下ろした。三日月の手が、私の頭へと伸びる。

「俺はこの本丸に居る者たちと違い、何も哀しんではおらん。俺が知る主は、そなただけだ。このじじいの前でなら、いくらでも泣いて構わぬぞ」
「……聞いていたんですか」
「はて、何のことやら」

ゆるりと髪を梳くように、三日月の手が私の頭を撫でていく。上から下へ、また上から下へ。親が子に……いや、祖父が孫にするような手つきは、どうしようもなく優しい。
私と和泉守兼定の会話をこっそり聞いていたのか、それとも天下五剣だからこそ出来るエスパー的な能力なのかは、わからない。けれどこの言葉は、三日月の本心なんだろう。せめて今だけは、そう思っていたい。
私は此処に居て良いのだと、証明してくれるこの人の言葉を。

「ありがとうございます、三日月」
「おや、泣かぬのか」
「泣けと言われて泣けるほど、素直な人間じゃないんですよ、私」

自分でも下手くそだとわかる笑みを浮かべて、未だ頭を撫で続けている三日月の手を、そっと避ける。三日月は表情を変えることなくその手を下げ、そうか、と一度だけ頷いた。

「いつか主の泣き顔を、見てみたいものだな」
「それだけ聞くと、いじめっこみたいですよ」



 *



数日後。ポケットの中に何も入っていない、焦燥感や虚無感にも似た何かには、次第に慣れてきた。
それでも、無くなって気付く大切さ――とでも言おうか。時折、無意識にそこを探ってしまうのだけど。

その日、私は夜桜を眺めていた。この本丸に来てもうすぐ一ヶ月。桜は満開となり、半分ほどの月が淡く桜を照らしている。
三日月とこんのすけは離れから出ていないが、私の帰りを待ってくれるそうだ。早く戻った方が良いだろうとは思うが、夜桜には叔父との思い出がある。なかなか、足が動こうとしてくれない。
この場所なら、そしてこの時間帯なら、誰にも気付かれないだろうという理由もあった。ここの刀剣男士たちは遅くとも二十三時には寝入っている。それに私は、桜の木を離れの側から眺めていた。母屋から私の姿は、見えないはずだ。……はずだった。

「弓張り月の夜に花見とは、風流だね」

ぱっと声の方へ視線を向ける。そこには寝間着に羽織をかけた、歌仙兼定が佇んでいた。いつの間にこんな近くまで来ていたんだろう。
心の中で慌てる私を余所に、歌仙兼定は桜を見上げる。桜を透かして、別の何かを見つめるように。

「あの人もよく、君のように桜を見ていたよ。特に夜桜が好きだったようでね」
「……そう、ですか」

叔父のこと、だろう。そう心の中で確認してしまったのは、歌仙兼定が『主』と言わなかったからだ。それがほんの少し不可解だったが、話し方は人それぞれだ。主は二人称で、三人称があの人だっただけかもしれない。
歌仙兼定はじっと桜を見つめる。どうやら私を責めるため近寄ってきたのではないと分かって、私も再び桜を見上げた。


 ――……


中学生の時だ。反抗期真っ盛りだった私は、何かにつけて親と喧嘩をしていた。喧嘩と言っても、言葉の応酬じゃない。ただ、日頃私が親へ向ける態度に対して母親が怒り、私は言いたいことを全部飲み込んで俯くだけの喧嘩だ。
私は確かに反抗期だったけれど、親がいなくては生きていけないこと、親は私の為に朝も夜も働いてくれているのだということだけは、理解していた。理解していたからこそ反抗的になって、けれど何も言えなかったのだ。

その日は、たまたま叔父が泊まりにきていた。にも関わらず私は母親と喧嘩をし、その言葉に耐えきれず家を飛び出た。けれど中学生の足なんてたかが知れていて、私は結局近所の公園でブランコに揺られることとなる。近所にコンビニなんてものはなかった。
公園では、桜が満開に咲いていた。外灯に照らされる桜は綺麗だけどどこか不気味で、やっぱり公園じゃなくて別の場所に行けば良かったと思ったものだ。
二十分ほど経っても何も起きないことから、くだらなくなって家に帰ろうとした時だ。
何故か大きな袋を抱えた叔父が、おーいと手を振りながら公園に入ってきた。私の元に駆け寄ってきた叔父は、「じゃーん」なんておどけながら袋の中身を見せてくる。
そこにはレジャーシートと、桜餅と、ビールの缶と、お茶が入っていた。

「何これ」
「いや、どうせ公園にいるだろうと思ったから。ついでに花見しようと思って」
「え、あ……そう」

叔父はそういう人だった。
レジャーシートをてきぱきと敷いた叔父は、座ってから自分の横をぱんぱんと叩く。座れ、ということだろう。大人しくそこに座り、差し出されたお茶と桜餅を受け取った。夜桜の下で、何とも言えない花見が始まる。

「三嘉は、桜が好きか?」
「まあ……綺麗だし、嫌いじゃないけど」
「そっか、俺は大好きだな。この淡いピンクが綺麗でさあ、それに知ってるか?桜には神様が宿ってるんだよ」
「それ、稲の神じゃなかった?」
「あちゃあ、知ってるか」

けらけらと笑い、叔父はビールを飲む。その横で私も、お茶を喉に流し込んだ。
ひんやりとした夜の空気と、冷たいお茶で、頭の中が落ち着いていく気がする。

「でもさ、昼と夜の桜って、なんか雰囲気違うだろ?だから昼の桜には稲の神様が宿ってるかもしれないけど、夜の桜には違う神様がいるんじゃないかなーって思うんだ」
「喧嘩になりそう」
「ならないよ、一本の桜だから。きっと違う神様でも、家族みたいに自分の役割を分担して、助け合って存在してんだ」

叔父の言葉に、私はふうんとだけ返す。
ここで、だから三嘉も親と助け合って、などと言う大人だったら、私は叔父にも反抗的な態度をとっていただろう。でも、叔父はそれ以上を口にしない。後は自分で考えて、自分でどうするべきか決めなさいと。そういう人だった。

「俺は夜の桜が特に好きだな。綺麗で、儚くて、冷たい気配があるのにどこか温かい。春先の寒空をぬくもらせる、柔らかな桜色だ」
「お兄ちゃんなんかキモイ」
「そんなこと言う子には桜餅あげないぞ!」
「一個で充分だよ」

それ以降も毎年叔父は、桜の時期には夜桜を見せに色んな名所へ連れて行ってくれた。忙しいときも、必ず。夜の桜に神様が住んでいたのなら、きっと叔父はその神様に恋をしていたんだ、なんて。そんなことを考えてしまうくらい、叔父は夜桜が好きだった。だから私も、夜の桜が好きだった。

お兄ちゃんのことも、好きだったから。


 ――……


いつの間にか閉じていた両目を、ゆっくりと開く。
変わらずそこには、思い出の中のような夜桜が、風と遊ぶように揺れていた。けれどここに、叔父は居ない。

「叔父は、貴方たちの主は……夜桜を見て、幸せそうでしたか」

小さな声で、歌仙兼定に問いかける。歌仙兼定は僅かに目を見開いて、そしてすぐに細めた。
思い出を慈しむ、蕩けるような笑顔だった。

「ああ、とても幸せそうに――懐かしむように、眺めていたよ」
「……なら、良かった」

その時の叔父も、私との思い出を懐かしんでくれていたらいいなと思った。今年は連れて行けなくてごめんなと、そう考えてくれていたら、それだけで私は充分だと。目を伏せて、夢想した。
そろそろ冷えてきた身体が、離れへ戻ろうと訴えてくる。なんとなく良い気分にもなれたし、私はその訴えに従うことにした。礼儀上、歌仙兼定に声をかけようとする。けれど彼がじっと私を見据えていた事により、私の身体は静止した。

何を、何かを……言われるんだろうか。じわりと嫌な汗が、背筋に浮かんだ気がする。
歌仙兼定はあからさまに強張った私の様子に僅か微笑んで、ゆっくりと頭を下げた。それは、心のどこかで場違いにも感心してしまうくらいに、綺麗な最敬礼。

「僕たちは、あの人に言われていたんだ。もしいつか、審神者となった君に会うことがあったら、仲良くしてやってくれと。姪はああ見えて寂しがりだからと。それに僕たちは頷いた。あの人の家族なら、君だって僕たちの家族だ。姉のように、妹のように、子のように、孫のように接しようと。そう思っていた、はずだったんだ」

私は、沈黙のまま歌仙兼定の後頭部を見つめている。

「だけど僕たちは……一時の哀しみのままに、君を傷付け、拒絶した。僕はあの時から君を拒絶までするつもりは無かったけど、皆を止めなかったんだ。君を受け入れなかった、僕も同罪さ」

歌仙兼定の顔が、ゆっくりと上がる。そうして、私の目を真っ直ぐに見た。

「……ごめんなさい」

その言葉はあまりにも、彼の口から出るには幼い言葉だった。
薬研藤四郎のように、すまなかっただとか、申し訳ないとかなら、まだなるほどと思えたが。ごめんなさい、という謝罪の言葉に、私は面食らってしまっていた。

「あの人が言っていたんだ。悪いことをしたらごめんなさい、嬉しいことをしてもらったらありがとうと言うのだと。僕は、その言葉は覚えていたのに、君を一人にさせないでくれと言った彼の言葉は、忘れてしまっていた」

きっとあの言葉は、彼から僕らへの、祈りだったはずなのに。

歌仙兼定は、もう一度「ごめんなさい」とはっきり告げた。きっと私がいいよと返すまで、何度でも謝るんだろうと思った。
自分の罪を自覚して、認め、償うための言葉。
その言葉は、相手が受け入れずとも受け止めなければ、何の意味もない。私以外に、彼を赦せる人はいない。

「……ありがとう、ございます」
「、え……?」

いいです、赦しますとは言えなかった。
別に私は怒っていない。初日に言われた言葉たちは衝撃だったが、その通りだとも思ったのだ。私は彼らの主になるべきじゃない。なることは出来ないと。それは今も変わらない、事実のままだ。
だけど、あの日に受けた衝撃は、そう簡単に消し去れるものではない。言ったものだろうと言わなかったものだろうと、それは歌仙兼定の言う通りに同罪なのだ。罪かどうかは、置いておくとして。
けれど、歌仙兼定の言葉が嬉しかったのも、事実だった。私は彼の謝罪によって、この本丸に住む刀剣男士から初めて、免罪符をもらえた気がした。この本丸にいても良いと。彼らのように哀しまずとも、いいのだと。

「嬉しいことをしてもらったら、ありがとう、なんでしょう。私は貴方の言葉を嬉しく思いました。……まだ、赦せるかどうかはわかりません。私はただの、人間です。誰も彼もは赦せず、けれど誰も彼もへ怒りを向けることも出来ません。だから……ありがとうございます。歌仙兼定、貴方の言葉で私はひとつ、救われた」

歌仙兼定はやわく首を振り、そんな、とだけ震える声を漏らす。
叔父との約束を守れなかった後悔は、自分たちでするといい。その約束に、私は関係ない。でも叔父の言葉を思い出し、その上で私の存在を認めてくれた。ごめんなさいと言った、貴方の言葉。私はそれを、確かに受け止めた。

「僕の方こそ、ありがとう。許してくれとは言えない、けれど君は、僕の言葉を受け止めてくれた。それだけで今の僕は、嬉しいと思える」
「……これからは互いに、受け入れることができたらいいですね」

半ば他人事のように微笑めば、歌仙兼定も微笑んだ。あの蕩けるような笑みは見せてくれないけれど、それで充分だ。

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