「主、主よ、今日の朝餉は俺が作ろう」

その言葉を、眠っている私を早朝四時に叩き起こしてまで言う必要があっただろうか。
早起きにも程があるぜじいさんと心の中で嘆息し、曖昧に頷く。昨日は政府への報告書を仕上げていて、寝たのは日付が変わった頃ぐらいだ。少なくともあと二時間は寝ていたい。
二度寝しますの意を込めて寝返りを打ち、三日月に背を向ける。

「美味いものを作ってやるからな」
「期待してます……」

ぽんぽんと軽く撫でるように肩を叩かれて、三日月が部屋から出て行く気配を気持ちだけ見送った。
……そういえば、妙に嫌な汗をかいている。額にくっついた前髪を払って、うっすらとだけ目を開けた。何か、嫌な夢を見た気がするけれど、思い出せはしない。
昨日は四振もの刀剣を手入れしたし、報告書にも気を遣った。その所為で疲れていたんだろう、夢なんて、そもそも起きたら忘れているものだ。そう結論づけて、ゆっくり瞼を下ろした。


徐々に大きくなっていく目覚まし時計の音が、ぴたりと止まる。目覚まし時計を止めるのすら億劫で布団にくるまっていた私の目の前に、もふ、と見慣れた顔が現れた。布団の中に顔を突っ込んできたらしい。

「主さま、おはようございます!お疲れでしょうが、三日月殿が用意してくださった朝食が出来上がっておりますよ。ほら、良い匂いがしますでしょう」
「うん……おはよう、こんのすけ」

この本丸に来てから、朝に弱い私を起こしてくれるのはいつもこんのすけだった。

本来、こんのすけという式神は刀剣男士と審神者の中立であり、政府と審神者間、審神者と刀剣男士間の橋渡しをする役目を担っている。どちらにも肩入れせず、義務的に政府からの指示を審神者や刀剣男士に伝えるための存在だ。
しかしこのこんのすけは、どう見ても私に肩入れしすぎている。なんなら、刀剣男士に対して警戒を覚えている域だ。態度を見る限り、三日月は別のようだが。
こんのすけがここまで私に肩入れする理由はわからない。けれど、確かに私はこの子狐の存在に救われていた。

「おや主さま、今朝は随分と汗をかかれたようですね。夢の中で焦りでも致しましたか?汗だけに」
「二点」
「前任だけに善人、とか仰っていた方のつける点数とは思えません!」
「何で知ってんのそれ、ねえ」

こんのすけは口笛を吹きながらすたこらさっさと姿を消してしまったので、諦めて軽く汗を拭き、髪を整え、居間へと向かう。
確かにこんのすけの言う通り、辺りには随分と美味しそうな匂いが漂っていた。純粋な、和食の匂いだ。醤油や味噌の、良い香り。ずうっと昔に行った、おばあちゃんの家を思い出す。
居間に入れば、テーブルの上には既に三人分の朝食が並んでいて、いつもの定位置に三日月もこんのすけも座っていた。私もいつもの場所へ座り、三日月へ「おはようございます」と声をかける。

「よく眠れたか?」
「はい。三日月に一度起こされた後は、特にぐっすりでした」
「ならば良かった、良かった」

ははは、と三日月はどこかほっとしたように笑う。それに疑問符を浮かべはしたが、それ以上気にすることもせず朝食へと視線を移した。
白飯、白菜の重湯漬け、鮭の塩焼き、蕪の味噌汁、菜の花のおひたし。白菜の重湯漬けだけは、私が作り置いていたものだ。しかし、こう言っちゃ何だが……予想外だった。
確かに三日月は顕現してから、私が台所に立つのを毎回と言っていいほどにずっと見つめていた。けれど、私は彼に調理を手伝わせたことはない。なんとなくのイメージだが、この刀剣男士は料理なんて出来そうもなかったからだ。だのに、この朝食はちゃんと朝食の形をしている。絵に描いたような朝食だ。
これもまた、こう言うのもあれだが……正直初めて、三日月を尊敬した。

「凄いですね、レシピ……調理の手順はどこで知ったんですか?」
「毎日主が作っているのを見ているからなあ、覚えもするさ」
「だからって……いや、神様ならそれくらいは……?にしても本当に凄い……」

世話をされるのは好きだ、と常日頃よく口にしている三日月が、自らの意思でこれを作ったという事実がまた凄い。
起きてからは何故か意識がすっきりしていることだし、ここは素直にお礼を言っておこう。よくよく考えれば、神様に料理をさせるなんてとんでもないことなのだ。

「ありがとうございます、三日月。ありがたく頂きます」
「うむ、たんと召し上がれ」

こんのすけと2人、いただきますと手を合わせてから箸を伸ばす。鮭は少し焼きすぎていたが、それでも全てが美味しかった。噂では燭台切光忠や歌仙兼定も料理上手だと聞くし、刀剣男士には存外器用な者が多いのかもしれない。
じっくりと味わうように食べ、ごちそうさまを告げる。三日月も綺麗に朝食を食べ終えていて、私に続くようにごちそうさまと呟いた。

「しかし、主の作るもののようにはいかぬな。菜の花と鮭は今一つであった」
「そうですねえ……菜の花のおひたしは、少し醤油の量が多かったですね。鮭は、あと一〜二分焼き時間が短くても良かったかもしれません」
「ふむ、そうか。覚えておこう」
「またいつか作ってくださるのなら、私もお手伝いしますよ」

まとめた食器を台所に持って行きながら、小さく笑みを向ける。三日月は「そうか」と、ただただ優しい表情で私を見上げていた。その表情を見て、ふと思い出す。
嫌な夢を見た気がした。けれどその後に、優しくも冷えた光に包まれた気がする。そうだ、私はあの時、三日月を見た。三日月宗近ではなく、本当の月。その光に遮られるように嫌な夢は終わって、私は三日月に起こされたんだ。

三日月が、悪夢を払ってくれたのかも、なんて。

まあ、さすがに付喪神と言えど、他人の夢にまでは干渉出来ないだろう。自分の馬鹿らしい考えを笑い飛ばして、食器洗いを始めた。



 *



母屋の方は随分と静かだし、今日は特にやることもないだろう。
居間で、書庫に置いていた小説を読んでいる三日月と、テレビで再放送のドラマを見ているこんのすけに背を向け、私は自室へと向かう。端末で審神者ネットワークでも眺めながらのんびりしようと思っていた。
ふと、服のポケットに手を入れる。いつもならそこでかさりと紙に触れる感触があったはずなのに、何も入っていなかった。あれ、と思考が止まる。

「何で……」

いつも、ここに入れていたはずだ。肌身離さず、この本丸に来てからは特に、ずっと大切に持っていた。それが、無い。
慌てて自室に飛び込み、辺りを探す。畳んである布団をひっくり返しても、クローゼットを漁っても、引き出しを引っ張り出しても、それはどこにも無かった。
そう、いえば。私は昨日も、この服を着ていた。母屋で手入れをした時も。此処にないのならば、きっと、そういうことだ。恐らく私は昨日、母屋にそれを落としてしまったんだろう。
衝撃を受け、自分に呆れ、焦りはしたが……少しだけ安心した。母屋にあるのなら、大丈夫だろう。彼らがあれを無下に扱うとは思えない。今すぐ探しに行きたい気持ちは山々だが、この時間に母屋へ向かうのは……考えものだ。私は彼らに、関わるなと言われている。
寝静まった頃に、探しに行こう。さほど大きなものでもない、廊下の隅に引っかかっている可能性だってある。大丈夫、きっとすぐに、見つかるはずだ。
無理矢理に自分の心を落ち着かせて、散らかった部屋を片付け始めた。


夜、すっかり静まった本丸を、二割ほど欠けた月が照らしている。私は寝入っている三日月とこんのすけを起こさないよう離れを出て、渡り廊下をそうっと歩いていた。物音を立てないように、けれど見逃すことの無いよう、辺りに忙しなく視線を向ける。
それがあれば、きっとすぐに分かる。大丈夫、大丈夫。

母屋へと入り、まずは昨日の道順通り手入れ部屋へと向かう。数分もかからず手入れ部屋に辿り着いたが、道中にも、勿論手入れ部屋内にも、それは落ちていなかった。
この辺りに無いと言うことは、誰かが拾って、持って行ってしまったんだろうか。……確かに、無下にはしないだろう。返してもらえるかどうかは、少しばかり不安だが。
誰かに拾われたのなら、もう私がここにいる理由はない。離れに帰ろう。あれを持っていられないのが心苦しいけれど……いつかは、返して貰えるだろう。そう思いたい。
踵を返して、通ってきた道を逆方向に歩きだす。離れにほのかな明かりが見え、もしかしたら三日月かこんのすけが起きてしまったのかもしれない、と考えた。何も言わずいなくなった私を、心配してくれているだろうか。こんのすけだとしたら、うるさそうだな。
そう思ってちょっと笑っていたから、気が抜けたのだろうか。右に分かれた廊下の先から、一人の刀剣男士が近寄ってくることに直前まで気付けなかった。

「アンタは……」
「っ、わ、……すみません」

ぶつかりそうになって、すんでのところで避ける。相手は随分前から私の存在に気付いていたようだが、私は前を見てすらいなかった。ぶつからなくて良かったと、心から安心する。

「何してんだ、こんな夜更けに」

訝しげに私を見下げるのは、和泉守兼定だった。寝間着姿で、いつものように髪を結ってもいない。
勝手に母屋を歩いて、怒鳴られでもするかと思ったが、和泉守兼定の対応は存外静かだった。他の刀剣男士は寝入っているのだからという配慮か、それとも。……いや、そんなことを考えている余裕はない。
私はそれなりに怯えていて、それと同時に申し訳なくも思っていた。この母屋は、刀剣男士たちの許可なく、私が勝手に練り歩いて良い場所ではない。

「申し訳ありません、少し探し物をしておりました」
「こんな、真夜中にか」
「……申し訳ありません」

頭を下げる。とにかく早く、離れへと戻りたかった。怒ってはいないようだが、和泉守兼定の纏う空気はとても重い。
これ以上追求されても面倒だし、と心の隅で考え、私は頭を下げたまま「失礼しました」と和泉守兼定の横を通り抜けた。引き止められることもなく、私の足は離れへと向かうことが出来ている。
ほっとしたのも束の間、背後から和泉守兼定の声が、刺すように私へと向けられた。

「前から気になっていたんだが、何でアンタは哀しまねえんだ。此処に主の気が遺っていることくらい、審神者ならわかんだろ。懐かしさに、哀しみはしねえのか。何で、泣かねえんだ?」

足が、ぴたりと止まる。どう答えるべきか分からないまま……ほとんど反射で、思った通りの言葉を呟いた。

「私より哀しんでいる方がいるのに、どうして私が泣けましょう」

ああそうだ、確かにこの本丸には、泣きたくなるくらい懐かしい叔父の気配がある。それは霊力だけでなく、玄関に飾られた絵だとか、広間に置かれていた花瓶だとか、少しだけ見ることの出来た叔父の部屋だとか、そういったもの全てに、叔父の思い出が在った。
現代にいた頃だって、そう頻繁に会えた人じゃない。でも、会えば私を甘やかしてくれて、時に叱ってもくれた。ここまで育ててくれた両親も大切だけれど、叔父の方が大好きだった。そんな叔父が、生きていた場所、暮らしていた世界。懐かしくて、哀しくて、たまらないに決まっている。
だけど私以上に、彼らの方が哀しんでいるんだ。付喪神としては人間が到底及ばない年月を生きている彼らでも、人の身を得てからはまだ、たかだか数年。哀しみに折り合いをつける方法も、上手く発散して、誤魔化す方法も知らない。綺麗で幼い、神様たち。
そんな彼らが哀しんでいる中で、自分こそが一番哀しいんだとでも言わんばかりに、泣き崩れるわけにはいかなかった。

私の言葉に、返答はない。
薄情者だと言われても、罵られても構わなかった。たとえ神様だとしても、誰だって、他人の本心なんて分からないのだから。
けれど再び歩き始めた私を追うように、和泉守兼定は小さく呟く。

「人間は、他人が哀しんでいたら、自分は哀しんじゃいけねえのか」

返せる言葉は、見つからなかった。

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