憂薬2 [21/27]


初めて薬研が審神者と出会った日。本丸の空には薄く雲が張っていて、歌仙を背後に控えさせた審神者に表情は無かった。
挨拶と状況説明、すぐに出陣してもらうとの依頼。それだけを淡々と機械のように告げて、じゃあ歌仙あとよろしく、と吐き捨てるように呟いたあと、後ろ手に一度だけ手を振った審神者の背中。厚い生地の浴衣らしき衣装に包まれたそれは、布越しでも女らしい曲線を描いていた。
己の主が女であることに、薬研が憤りや疑念を抱いたことはない。この人が今代の主なのだとすとんと理解し、彼女が一番に手にした短刀として、彼女の懐刀たる存在になろう、そう考えた。

審神者は初期刀である歌仙を随分と信頼しているらしく、彼女の住居兼仕事場である離れには基本的に歌仙しか近付けさせなかったし、出陣中の指揮も概ね歌仙に任せていた。
だから薬研は審神者と触れ合うどころか会話をすることもほとんどなく、彼女が笑ったり怒ったり泣いたり、そうやって表情を変えるところなんて想像も出来なかった。
所詮自分たちは刀だし、武器が人の真似事をして動いているのもどことなく馬鹿らしい。審神者は必要があるから歌仙とはああやって接するだけで、基本的に自分たちと関わりを持ちたくないのだろう。そういう人なんだろう。
薬研はそう考えて、審神者と触れあいたがる他の兄弟を諫めたり、やることの多い歌仙を堀川と共にフォローしたりと過ごしていた。

もしかしたら自分の考えは間違っていたのかもしれない、と薬研が思ったのは、厨で黙々と甘味を量産している審神者を見かけた時だ。
普段は堀川や平野を中心として、朝昼夕の食事を作る時にしか用いられない厨から、随分と甘ったるい匂いが漂ってきていた。薬研自身は食べたことなんてないが、それはカステラに近い匂いに感じた。小麦と卵と砂糖を混ぜて焼いたような、そんな香ばしく甘い香り。
厨を覗き込んでみればダイニングテーブルの上に、中心に穴の空いた円柱状の物がずらりと、十を越す数で並んでいた。それも何故か、紙の容れ物を逆さまにし、同じく逆向きに置かれた湯呑みの上で放置されている。
その後ろで審神者は、ボウルを片手に何かを泡立てていた。
わけのわからない状況に薬研は暫し目を瞬かせ、声をかけて良いものか躊躇う。審神者から怒りやそれに近い気配は見受けられないが、なにか、近寄ってはいけないような気がしたのだ。
しかし、別段気配を断っていたわけでもない薬研である。結局気配か何かで気が付いたのか、徐に振り向いた審神者に見つかった。

すまんと謝罪を一言。審神者は相変わらずの無表情のまま、ちょうどいいやと並んだ円柱状の物を顎で示した。
「それ、適当に食べていいよ」と告げられた言葉は、薬研が初めて審神者に会った日、「じゃあ歌仙あとよろしく」と言っていた時の声音とまったく同じだった。
何物にも頓着していないような、全部をどうでもいいと考えているような、そんな声音。
けれど声音の割に表情はいくらか優しげで、「ああでも、シフォンケーキなんて誰も食べたがらないかな。和菓子にすればよかったか」なんて独りごちる審神者の姿に、薬研は瞠目したのだ。

「これ、全部大将が作ったのか」
「そうだよ。たまにストレス発散で作る。食べるのはあんま好きじゃないんだけどね、作るのは楽しいから」
「しふぉんけえき、って言うのか?これは」
「うん、焼き菓子。カステラとかに近いっちゃあ近いかもしんないけど、あれよりふわふわしてて、軽い感じ」
「今作ってるのも、同じものか?」
「こっちはクリーム。シフォンケーキにつけたり塗ったりして食べるもの」

こんなにも、審神者と薬研が話したのは初めてだった。
背を向けているので薬研から顔は見えないが、意図せず質問攻めをしてしまった薬研にも嫌な顔一つせず、淡々と返答してくれている。
欲の湧いた薬研が「今、味見してみてもいいか」と問いかければ、一旦ボウルから手を離してシフォンケーキを一つ取り、手早く切り分けてもくれた。ちょうど良い具合に仕上がったクリームも添え、皿に載せてフォークと共に手渡す。
なんとなく、薬研は万歳をしたいような、わあっと叫びたいような、そんな気持ちになった。胸の辺りからせり上がってくる、熱い何か。気付かぬうちに顔が紅潮して、どんなに堪えても口角が上がる。にやけてしまう。

ああそうか、俺も他の兄弟たちと同じで、大将とこうやって話してみたかったのか。必要がなくても側に居て良いって、許されたかったのか。
ふんわりと軽い食感のシフォンケーキを咀嚼しながら、自嘲とも苦笑ともつかない表情で、薬研は笑った。
正直なところ、薬研はその噛んでるんだか噛んでないんだかわからないシフォンケーキをあまり好きにはなれなかったが、それを食べられたことが嬉しかった。
審神者が作った夕食を食べたことだってある。それでも、それよりも嬉しかった。何でかはわからないけれど、涙まで出そうなくらいに。


そんなことがあったけれど、その日以降も審神者の態度が変わるわけではなく、薬研も理由なく離れを訪問するようなことはしなかった。
審神者の邪魔をしたくないからだとか、他の兄弟たちを諫めていた手前、自分だけが審神者と接点を持とうとするのは悪いだとか、色々理由はあったかもしれない。でも実際のところは、審神者に拒絶されるのが怖かっただけだ。
離れには近寄るなって言ったよね、何で来たの、帰ってくれる?……そんな審神者の声は何故だか容易に想像できて、きっとその時も無表情に無感情に、淡々と吐き捨てるように言うんだろう。彼女が笑顔で薬研を迎え入れ、お茶でも飲んでく?なんて気軽に誘ってくれるような未来は、薬研には想像も出来なかった。

薬研が再び審神者と大きく関わったのは、シフォンケーキを食べた日から一週間ほど後のことだ。
その日の朝食に審神者は姿を現さなかった。いつものこと、ではないがよくあることだったのでさして誰も気に留めず、審神者を起こしに行った歌仙が戻ってくるのを待つ。
戻ってきた歌仙は随分と困り顔で、朝食後に薬研が声をかければ、ああと思い当たったような顔に変わった。
「そういえば薬研には、医療の心得があるのではなかったかな」から始まった歌仙の話によると、審神者が体調を崩したらしい。日頃夜ふかしをしたり朝食を抜いたりしている審神者のことだ。風邪をひくことくらい想像できた。

「本人は寝てれば治ると言うんだけどね。せめて何か、栄養のあるものを食べるとか、薬を飲むとか、政府に連絡して医者を呼ばせるとか……そういったことをすべきだと言っても、聞かなくて。人の子がこういった時にどうするのか、僕にはあまりわからないし。ほとほと困っていたんだ」
「そういうことなら、看るくらいは出来るが……薬ばかりは城下町に出んことには入手できんな。今度本丸に薬草園でも作るか」
「それはいい案だ、緊急時にも対応しやすい。ともかく、主が風邪だと言ってるからって、本当に風邪とも限らない。看てやってくれないか」

本当に自分が離れへ行っていいのか、審神者の気分を害さないだろうか。少しの間薬研は頭を悩ませたが、それよりも審神者の体調の方が余程重要だ。自分が嫌われるのは別にいい。審神者がもしただの風邪でなく、何か重い病気の前兆だったら。
薬研はそんな悪い予想を無理矢理振り払って、歌仙と共に離れへ向かった。
薬研が離れの中へ入るのは初めてのことで、布団にくるまってる審神者の姿なんて、きっと、ずっと見られないものだと思っていた。それは、歌仙だけの特権だと思っていたから。

結局審神者はただの風邪で、熱もあるものの本人の言う通り安静にしてれば一日二日で治るだろうといったところだった。
だから言ったじゃん、と審神者の目は訴えていたが、万一審神者がいなくなればこの本丸に住む刀剣男士たちも消えかねないのだ。行きすぎた心配をすることはしょうがないと考えてほしい。
そもそも審神者は彼らにとっての主で、しかもまだ二十歳そこらの女で、人間だ。刀剣男士と違って手入れでは傷も病も治らないし、ちょっとの傷であっさりと死んでしまう。
薬研は主を喪いたくなかった。もっと話したかったし、出来るのなら熱を測る以外の理由で触れることを許されたかったし、これからもずっと、彼女が生きている間、自分を側に置いてほしかった。
審神者の、一番の、短刀として。


それ以来だったろうか。弱っているところを見られたから、というのが理由の多くを占めている気もしたが、審神者は薬研を頼ることが多くなった。
歌仙が厨番の時は薬研が審神者を起こしに行くようになったし、城下町へ買い物に行く時の付き添いや、審神者がちょっとした怪我をした時の治療なんかにも、薬研を呼ぶようになった。
基本的に表情の薄い審神者だったが、触れ合う機会が増えれば、微かに笑ったり苛立ち混じりに顔を顰めたり、といった表情も多いことに気付いた。
共に城下町へ出かけた時には、歌仙には内緒ね、なんていたずらっぽく笑って二人で甘味処に立ち寄ったこともあったし、存外子供っぽいところのある審神者が城下町にある射的屋で散財しようとするのを、どうにかこうにか引き留めたこともあった。
刀剣男士が随分と増えた本丸の中で、薬研は第一部隊や第二部隊に所属しながら出陣を繰り返していたし、兄弟たちがきっと薬研兄さんは一軍になりますよ、と薬研を憧れの目で見ることも少なくなかった。

審神者が一番に愛している短刀は、自分だった。
一番最初に来て、一番愛されて、一番頼りにされて、一番用いられて、一番に強く、大将を守る短刀は、懐刀は、俺なんだ。
そう思っていた。薬研だけでなく、短刀の、本丸の誰もが、そう思っていた。審神者が重用する短刀は薬研藤四郎だと、誰もが認めていた。
でも、俺だと思ってた。俺なんだ。自分だった。認めていた。――全てが、過去形だ。

審神者が一軍に選んだのは厚藤四郎だったし、二軍にはそもそも短刀が入ることすらなかったのだから。
薬研は一軍と二軍よりは弱く、他の未所属のままな刀剣たちよりは強い。そんな中途半端な錬度のまま、審神者の本心も見えず、厚や他の一、二軍によくわからない引け目を感じながら、暗い澱の中で宙ぶらりんになっていた。
それを誰にも悟らせない程度には器用で、大人びた精神を持っている自分が、嫌になった。


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -