石鹸の香り 

中学3年、春。
さっき「昔は若かった」なんて思っていたけれど、今も十分若いなあと窓の外を眺めながら溜め息をついた。

桜は散り始め、青々とした葉が生い茂り始めている。
地面で踏みつぶされた薄紅色の花びらは、咲き誇っていた時と比べてひどく、汚く思えた。

からん、と手に持っていたシャープペンシルを放り、机に体を投げ出す。
ああ、疲れた。日誌なんて何を書けばいいのかまったくわからない。
今日あった出来事、みたいな事を書き記す欄は30分前から空白のままだ。
何気なく以前のページをぱらぱらとめくっていれば、女子の書いた「黄瀬くんが今日もかっこよかった」という字列が目に入った。
それは日誌に書くような事柄なのだろうか。
語尾についてる顔文字は、とても可愛らしいのだけれど。
それに対する「そうか、良かったな」という担任からの一言コメントがまたシュールだ。

「あれ、露木さんまだ残ってたんスか?」

開け放しにされていた教室のドアから、ひょこりと黄色の髪が覗く。
部活の最中だったのか、バスケ用らしいだぼっとしたハーフパンツにTシャツを着た黄瀬が、そこにはいた。

日誌が残ってて、とちらりと向けた視線を日誌に戻しながら呟く。
めんどいッスもんね、なんて笑いながらあたしに近付いてくる…というより正確には自分の席へと向かっていく黄瀬からは、嫌にならない程度の汗のにおいがした。

「あ、すまっせん!もしかして汗臭いッスか!?」

机の中をがさごそ漁っていることから何か忘れ物をしたらしい黄瀬が、不意にばっと体を起こしてあたしから距離をとった。
その余りにも素早い行動に目を丸くしながら、いや別に、と返す。
や、でも臭いッスよね、俺さっきまで走ってたし…とまだ忘れ物を探し出せてないだろうに、自分の机に近寄ろうとしない黄瀬を見かね、そこまで本人が気にするならと鞄から制汗スプレーを取り出した。

「別に気にならないけど、使ったら?少しはすっきりするでしょ」
「え、あ、じゃあ…ありがたく使わせてもらうッス」

スプレーから白い霧が噴き出る音と同時に、石鹸の香りがふわりと教室内に広がる。

…黄瀬に制汗スプレーを貸した、なんて日誌に書いたら、クラスの女子からクレームを受けてしまうだろうか。
けど他に特筆すべきような出来事は起きてないのだし、はてどうしたものかと首をひねる。
ずっと同じ姿勢をしていたせいで凝り固まっていたのか、ぽきりと小気味の良い音がした。

ありがとッス!とスプレーを差し出してきた黄瀬からそれを受け取り、鞄にしまう。
石鹸の香りのするいい男の出来上がりだ。
まあ、彼のファンからしてみれば汗のにおいがしようが石鹸の香りがしようが香水のにおいがしようが、好きなことに変わりはないんだろうけど。イケメンって羨ましい。

「日誌、書かないんスか?」
「…書くようなこと無いからなあ」
「俺のこと書いてくれてもいいんスよ!」
「え、やだ」
「即答!?」

ひどいッスよお、涙ぐむ黄瀬の頭から犬耳が垂れているような錯覚。
ああそうだ、今朝登校中に見かけた犬のことを書こう、そうしよう。学校生活にはなんの関係もないけれど、まあいいだろう。

「てか忘れ物取りに来たんじゃないの?早く部活戻らないと赤司くん怒るよ」
「あ、わ、そうだった!やっべー…赤司っち怒ったら怖いんスよね…」
「今度それ、赤司くんに会ったら伝えとく」
「ちょ、それだけは勘弁してくださいッス!」

再び机の中を漁って見つけた、お目当ての物らしいノートを手に黄瀬は冷や汗を流す。

赤司征十郎。バスケ部のキャプテン、成績は学年1位。文武両道で文句無しのイケメン中学生だ。
ちなみにあたしは彼と、それなりに仲良しである。黄瀬とそこそこ話す関係になっているのは、そういう理由もあった。ただ席が前後なだけでは、ここまで話はしないだろうと思う。

「冗談、じゃあ部活がんばって」
「…露木さんが言うと、まじで冗談に聞こえねーんスけど…」

暫く耳を垂らして困ったような微妙な顔を晒していた黄瀬も、校内に響くチャイムの音ではっと我に返ったのか、「じゃ、また明日!」と手を振って教室から出て行った。
黄瀬が教室に来てから10分以上は経っていたし、これは確実に赤司からお叱りを受ける羽目になるだろう。
そのときもしゅんとしてあの犬耳を垂らしているのだろうかと思うと、少し、少しだけ笑えた。


 (わかりやすい犬は、嫌いじゃない)


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