バレずに、なんてのはどだい無理な話で。政宗さんの行動はやたらと早く、私はそれをぼけーっとお茶を飲みながら眺めている他なかった。
佐助から離れたいのなら、堂々と政宗さんの嫁になったことを周囲に見せつければいい。そうすれば佐助は手を出せなくなる。手を出したくても、出しちゃいけなくなる。

なんというか、本当にこれで良かったのかな。選択を間違えた気がしなくもないな。
そう思いながら、婚姻届に判を押した。
印鑑をいつも持ち歩いているのが良かったのか悪かったのか。にしてもほんとに仕事が速すぎる。自分がこんなスピード婚をするとは思ってもいなかった。


 *


インターフォンの間延びした音が、室内で虚しく反響している。
三度押して返答がないこと、連絡をしても繋がらないこと。嫌な予感がして、鍵を開ける。春佳ちゃんがあの日以降も暗証番号を変えていないことは知っているから、手早くその数字を打ち込んだ。
ドアガードもかかっていない扉は、すんなりと俺を迎え入れる。

「……なに、これ」

そこは、もぬけの殻だった。
玄関先に買い物袋を落として、その中には卵も入っていたはずなのに気にも留めず、ふらふらとスリッパも履かずに室内へ歩き始める。
ベッドや本棚等大きな家具は残っているものの、朝に干した衣類や本棚の中の本、春佳ちゃんの気に入っていた小物なんかが全て消えていた。今朝まではいつも通りだったのに、ほんの数時間で、生活感のない部屋になっている。

ふと目線を落とせば、テーブルにメモ用紙が落ちていた。封筒に入れられているわけでもなく、便せんですらなく、メモ帳からちぎっただけの紙。
その筆跡は、春佳ちゃんのもので。

『どうせ佐助のことだから反応無かったら勝手に部屋入るだろうと思ったので、ここに書き残しとくね。
 今までお世話になりました。ありがとう。感謝してるし、楽しかった。もう幸村さんと姉さんのとこに、帰っていいよ。私は政宗さんと結婚することにしたので、お世話はもう要らないです。武田さんいわく、結婚したら自分の世話は夫婦間の仕事になるそうなので。佐助はもう、いらない。
 まあ、じゃあ、そういうことなんで。もしかしたら式の時は顔合わせるかもしんないけど、私はもう上月家にも真田家にも関係ない人間だから。
 お互い元気で。 伊達春佳』

何が書かれているのか、理解が追いつかなかった。目で文字を追っても、頭に入ってこない。

今まで?帰っていいよ?もう、いらない?伊達春佳?
どういう、何で、頭がこんがらがる。見たくもない文字列なのに、目は何度も繰り返しそれをなぞり続けて、何分も、何十分もかけて、……ようやく、飲み込んだ。


春佳ちゃんは、わかってたんだ。
わかってて、でも、何にも知らなかった。俺の気持ちも、絢佳ちゃんと俺と真田の旦那の関係も、美野里さんたちの思いも。
何にも知らないのに、わかってしまったから、こうなった。

怒りも、悋気も、悔しさも、悲しさも、全部ひっくるめにしたような溜息が出る。胸の内に残ったのは、諦めだ。
春佳ちゃんは頭が良い。あいつの差し金だろうけど、それでも事実伊達の家に入られてしまえば、俺には手を出すことも、勿論口を出すことだって出来やしない。春佳ちゃんの言う通り、関係なくなってしまった。
真田の旦那の義妹でも、やっぱり、俺との関係はない。

「ま、春佳ちゃんがそういう道を選んだのなら、しょうがないよね。……この部屋どうするつもりなんだろ、右目の旦那辺りが引き払いにでも来るのかな。や、普通に業者雇うか、もう必要そうなモン無いし。あーあ。俺様も出戻りかー。まぁた仕事まとめて引継ぎしなきゃなんないとか、勘弁してくれよまったく」

ぺらぺらと常通りに回る舌とは裏腹に、身体からは力が抜けていく。
ああ、もう、本当に勘弁してくれよ。何でこうなるんだ、いつも、どうして。俺はいつだって、置いていかれる。

覚束ない足取りで、今朝まで春佳ちゃんが眠っていたベッドへと向かう。そこに春佳ちゃんが居るみたいに枕を撫でて、シーツを手繰り寄せて、ベッドの脇に膝をついた。顔を押しつければ、春佳ちゃんの匂いがする。
何やってんだろ、変態かよ。片隅で冷静に考えるけれど、それだけだ。
春佳ちゃんは確かに此処に居た。でも、今はもう居ない。きっと春佳ちゃんの中で事実は固まっていて、そしてそれは少なからず合っていて、だから彼女は俺の前から消えた。家族の前から消えた。
もう二度と、春佳ちゃんに触れることも、一緒に笑い合うことも出来ない。あんなにも幸せだった日常は、俺の前には戻ってこない。

それでも、春佳ちゃんとの生活を日常にしてしまったことを、間違いだったとは思いたくない。


――どうやら、そのまま眠ってしまっていたらしい。
握り締めていたせいで皺の寄ったシーツを適当に伸ばして、ひとまず自分の部屋に戻ろう、と立ち上がる。

「人の布団抱えて眠るとか、変態か」
「……、え」

俺の後ろで、胡座をかいて机に頬杖をついた春佳ちゃんが、眉間に皺を寄せていた。
混乱する。春佳ちゃんはもう、戻ってこないはずで。俺と春佳ちゃんは、二度と、話をすることなんて出来ないはずで。春佳ちゃんに俺はもう、要らなくて。

「幽霊じゃあるまいし、びびりすぎ。ていうか起きたならそこどけて」

ほんの僅かだけ笑ってくれた春佳ちゃんが、邪魔とでも言うように手を振る。混乱したままの俺は大人しく脇へ避けて、所在なく立ち竦むしかなかった。
ベッドの下に詰められた棚からいくつかの小物を取り出し鞄にしまう春佳ちゃんを、呆然と眺める。……忘れ物が、あったらしい。

ぐるりと部屋を見渡して、もう他に忘れ物が無いかを確認したのか、小さく頷いた春佳ちゃんはそのまま歩き始め、俺の横を通り過ぎようとした。
無意識に、その腕を掴んでしまう。見上げられた目線に柄にもなく身が竦んで、すぐ、ごめんと手を離した。
今度こそ、春佳ちゃんは歩き始める。部屋の外へ。俺の、手の届かない場所へ。

「っ春佳、ちゃん」

靴を履いた直後の姿勢で、硬直する。びくりと震えた肩は、俺への拒絶を示していた。
きっと、春佳ちゃんは何も聞きたがってない。わかってるから、知りたがらない。そんな彼女を愚かしく思う自分と、愛おしく思う自分とがいて、俺はせめて声だけでも届けたかった。
聞きたくなくても、聞いてほしかった。

「今まで黙ってたけど、俺様、春佳ちゃんのこと一番に大好きだよ」

トン、と爪先をついて靴の位置を整える音がする。
絶対振り返らないと思っていたのに、俺へと顔を向けた春佳ちゃんは――満面の笑みだった。

「嘘ばっかり」


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