もうすぐ九月も終わるという頃。
今日もいつも通りの時間に起きて、軽くシャワーを浴びてから自分の部屋の家事をざっと行う。洗濯物を干し終えた頃には時計の針が九と十二の辺りを示していて、そろそろ春佳ちゃんを起こしに行くか、と鏡で髪型を整えた。ん、俺様今日もイケメン。

部屋を出てすぐ隣。ぴんぽーん、と間の抜けたチャイムを鳴らせば、いつも少しだけ億劫そうな春佳ちゃんが迎えてくれる。
……はず、なんだけど。返事も無けりゃ扉が開くこともない。部屋の中にじっと意識を向けはしたものの、気配はあるが動いている様子は感じられなかった。

「まだ寝てんのかな」

仕方なしに一旦自分の部屋へと引き返し、なんとなくつけたテレビをぼーっと眺める。
春佳ちゃんが寝てるなら、と食べた朝ご飯もなんだか味気ない。味のしないよくわからないものを、噛み砕いてお茶で流し込む。

十一時になったらまた起こしに行こう。
春佳ちゃんは休みの日、時々随分と寝続けるけれど昼まで眠ることは滅多にない。眠っていたとしても、チャイムを鳴らせばすぐに目覚めるくらいの浅いものだ。
基本的に春佳ちゃんは眠りが浅い。最近は俺の超個人的な願望で時折一緒に寝ているけれど、その度に彼女の眠りの浅さを実感する。俺がいるせいで余計に眠れないんだろうと考えると、俺はいつだって春佳ちゃんを抱きしめて寝ていたかったけど、そうもいかなかった。
これでも一応、人のことを気遣うタイプなんだ。それが春佳ちゃんともなれば尚更。


 *


時計が十一時を示したと同時に部屋を出て、さっきと同じように春佳ちゃんの部屋のチャイムを鳴らす。
ピンポーン、ピンポーン。数回室内で間抜けな音が反響するが、やっぱり反応はない。
三回ほど鳴らして無反応な事に、俺の心臓が少しだけひやりとしてきた。これだけチャイムを鳴らしたのに、春佳ちゃんが起きないわけがない。
となると、考えられるのは二つ。春佳ちゃんが意図的に無視をしているか、出られる状態にないか。

そのどちらもが起こり得て欲しくない想像で、俺はポケットの中からスマホを取りだした。
随分と前に、半ば強制的に交換した連絡先を引っ張り出して、春佳ちゃんに電話をかける。出ない。もう一度かける。……やっぱり出ない。

「春佳ちゃん……」

もう一度だけ、かけてみる。これで出なかったら、強行突破するしかない。
祈るような気持ちで、スマホを耳に当てる。断続的な機械音が鼓膜を震わせるのが不愉快で、早く、早く、お願い、どうか。そうやって祈り続けた。
こんな機械音を聞きたいんじゃない。俺は、春佳ちゃんの声が聴きたい。

『……、』
「っ春佳ちゃん!?」

繋がった、良かった繋がった!

数秒黙り込んでいた春佳ちゃんは、寝起きのせいなのか掠れ気味の声で『ごめん、寝てた』と呟く。それに僅か、違和感を覚えつつも安堵の溜息が漏れた。
良かった、無視、されてたわけじゃなかった。……よかった。

「いいよ、おはよう。無理矢理起こしちゃってごめんね?ドア、開けてもらっていい?」

また、春佳ちゃんが黙り込む。……違和感。
スマホからは、シーツがずれる音、くぐもった春佳ちゃんの声、そして微かに、呻くような音が聞こえてくる。

『あー…、今日は寝たい気分だから、ごめん。部屋も片付いてるし、明日、また』

それ以上は聞かず、春佳ちゃんの部屋の暗証番号を押していく。ぴっぴっ、という聴き慣れた機械音が届くのだろう。スマホの向こうから戸惑いの声があがった。
ピーッ、がちゃん。鍵が開く。扉を開けば、ドアガードはかけられてなかったのか、それはあっさりと、スムーズに開いた。不用心だなと心の隅で考えるが、今の俺には都合が良い。

靴を脱いで早足気味に春佳ちゃんの寝るベッドへと歩み寄る。
春佳ちゃんは困惑しきった表情で、けれどつらそうに俺を見上げていた。呼吸が僅かに乱れていて、眉間に皺が寄せられている。「何で」と呟いた声は震えていて、顔なんてもう色が無いくらいだった。
体調が悪いことなんて、一目でわかる。

「何で、はこっちのセリフ。何で言わないの、体調悪いって」
「……」

口を開くのもつらいのか、春佳ちゃんは目だけを申し訳なさそうに伏せる。
ベッドの横に膝をつき、春佳ちゃんの頭を撫でた。脂汗の滲む顔が、一瞬だけ和らぐ。けれどすぐに、またきつく顔を顰めた。全身が強張っている。

「どこが痛いの?熱は?」
「……お腹、が一番。あと頭。熱は、わかんない」
「そっか。……熱もあるみたいだね。なんか心当たりある?」

額に当てた手を離せば、やわく首を左右に振る。だけどすぐに、「大丈夫だから」とやっぱり掠れた声で呟いた。
何が大丈夫だと言うんだろう、こんな、つらそうに顔を歪めておいて。

「ときどき、なるの。慣れてるから、一日経てば、治るから」

その言葉と表情に、精神的なものだろうかとなんとなくのあたりをつける。
だとしてもこの状態は看過できるものじゃない。すぐにでも病院につれていくべきだ。根本的な解決が出来なかったとしても、対症療法くらいは出来るだろう。
そう考えて、春佳ちゃんに視線を向ける。微かに震えている春佳ちゃんの手を握れば、体調の所為か汗ばんでいた。

「病院に行こう、春佳ちゃん。家で寝てるだけじゃなんも解決しないよ。俺様が車出すから。あと美野里さんにも連絡入れた方が、」
「やめて」
「、春佳ちゃん……?」

やめて、と。ひどく静かな声で春佳ちゃんはもう一度繰り返した。たった三文字の言葉に、拒絶がありありと見て取れて心臓が痛む。

「寝てたら治るから、あそこに連絡なんて、絶対しないで」

半ば縋るような声音に、疑問符が浮かぶ。
日頃仲の悪い家庭だったとしたら、わからなくもない。だけど春佳ちゃんと美野里さんは仲良さそうに見えたし、結婚式の時も至って普通に話していた。
美野里さんは春佳ちゃんのことを本当に心配しているし、春佳ちゃんもそれを理解している。家族を思いやった上で、俺がここにいることを許しているのだから。

だから、春佳ちゃんの吐き出す、明確な拒絶を示す言葉が解らなかった。ともすれば嫌悪感すら見えるような声音。表情。
気圧されるようにして頷く俺に、春佳ちゃんが小さく安堵の息を吐く。

「……わかった、ごめんね春佳ちゃん。今日はゆっくり寝て。でも、心配だから……俺様、ここにいても良い?」
「ん、私こそごめん、冷たい言い方に、なった」
「悪かったのは俺様だから、気にしないで。後でおかゆ作るね」
「、……ありがと、佐助」

そうして、春佳ちゃんは瞼をおろす。俺の手を握りしめたまま、苦しそうに、つらそうに。


春佳ちゃんのことは何でも知っているつもりだった。
だけどそういえば、俺は彼女が何を考えているか、何を思っているか、てんで知らないんだ。
あの背中の火傷のことも。時折見せる強烈な拒絶の意味も。知らない。

知っているのなんて、基本的なプロフィールや学歴、交友関係、食べ物や衣服の好みくらいだ。……ああ、それと。
本当のところ、俺のことなんて、まったく頼りにしていないことも。
知っているのは、それだけで。

「春佳ちゃん」

そっと呼びかけてみる。返事がないだろうことは、わかりきっていた。

俺は、君のことを知りたいと思うよ。
俺のことを本当はどう思ってんのか、背中の火傷はどうしたのか、春佳ちゃんが何を考えてるのか。上月の家と連絡を取りたがらないのは、何でなのか。
何でも知りたいし、理解したい。春佳ちゃんのことなら、全部知っておきたい。

「――……、」

口からこぼれ落ちそうになった言葉は、飲み込んだ。


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