いっぱいになって水があふれたコップなら、全部水を捨ててしまえばいい。そうしたらまた、水を溜めることができる。溢れては捨てて、溢れては捨てて。
きっとこの、一人で過ごしていた無気力な期間は、水を捨てているところだったんだろう。


 *


「石田さん、今日は帰ってもらえませんか」
「……何故帰る必要がある?私はともこを迎えに来たんだ。共に帰らねば意味が無い」
「お願いします。明日、また来てください。その時は一緒に帰ります。でも、今日は駄目なんです」

意識して暗い、申し訳なさそうな声を出す。扉越しの人は不服なのか暫く黙り込み、……そして頷いてくれた。
また明日、迎えに来ると。そう言い残して、扉の向こうから気配が消える。そこで初めて、やっとわたしは一息つけた。すぐに玄関から離れ、簡単に荷物をまとめていく。


もう、あんな生活はしたくない。
かと言って、このままこの部屋にはいられない。
お金なら、そんな多くはないけどある。暫くホテル暮らしをするのが一番かもしれない。色んな所を転々として、きっといつか、あの人が諦めてくれるまで。

――そんな日が来るのかはわからないけれど。


 *


「……ここまで来るといっそ尊敬します」
「私はともこを迎えにきただけだ。何故、ともこはそう何度も行方を眩ます?鬼事でもしているつもりなのか?」
「どちらかというと隠れんぼですかねえ……」

もうあれから数ヶ月が経ったというのに、この人は飽きもせずわたしを追い掛けてきていた。どっさりと減ってしまった体重に関して、ストーカーダイエットとでも名付ければいいのだろうかと考えてしまう。そして少し笑った。笑えなかった。

「ともこ、私は貴様を愛している。ともこも私を愛しているはずだ、そうだろう、なのに何故逃げる必要がある?なぜ私の手から逃れていく?何故、何故ともこは私に応えてはくれない!」

ダンッ、と鈍い音が安アパートの扉を揺らした。此処は本当にぼろっちいところだから、あの人の力でなら扉くらい壊せてしまうかもしれない。これはいよいよもって鬼ごっこを始める日が来てしまうだろうか。それだけはご免被りたい。

「先日お伝えした通り、わたしはあそこに戻るつもりはありません。あなたと一緒にいたくもありません」
「そんな言葉は聞きたくない!ともこは私を愛している、そうだろう!?」
「そうだろうか?反語」
「ともこ……っ、何故、どうしてなんだ!私を受け入れてくれるのは、貴様だけなのに、どうして」

少しずつやけくそな反応になってきてるなと自分を振り返りつつ、ややきつめに扉を殴る。扉の向こうに、僅かな怯えの気配。
なんて弱い人だろうと肩をすくめて笑った。今度は、笑えた。

「順応性の高い人間って、割とすぐに大事なもんも捨てられるんですよねえ」

まあ別に石田さんのことは大事でも何でもないけど、と心の中で呟く。
扉越しに泣き声が聞こえてきた。ずるずると崩れ落ちて、きっと扉に手をついて彼は泣いている。わたしは相反するような表情で、そんな景色を夢想する。

それでもこの人はきっと、また逃げ出したわたしを追ってくるんだろう。そして扉越しに怒鳴り、喚き、泣き崩れる。お決まりのパターンだ。それをわたしも解ってて逃げる。時にはずっと遠くに、時にはすぐ隣の町くらい近くに。
もしわたしが海外にまで逃げても、この人は海を渡って、追いかけてくるんだろうか。


扉から離れくすりと笑みを漏らした時、窓が開く音がした。


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