大学を辞め、慌ただしい引っ越しを終え、わたしはほとんど物の置かれていない小さな部屋でぼんやりとしていた。
布団とテーブルだけが置かれている部屋。あとはいくつかの段ボールが部屋の隅に積まれているだけで、随分と広く感じる。カーテンを買いに行くのも億劫で、窓にはバスタオルを適当にかけていた。

誰も知らないんだから、あの人が此処に来ることもない。
そう思っているのに、外に出る気にならない。ご飯を食べる気にならない。何かをしようとする、気力がわかない。
投げ出した足の向こうで、新しく購入した携帯がチカチカと光っている。けれど、それを手に取る気にもならない。

結局のところ、飼われている状況に慣れすぎたんだろう。

自分の状況に苦笑を漏らすしかなく、けれど結局自分の表情が変わることもない。呆れるとも思ったが、呆れ顔にすらもならなかった。
ぼんやりと宙を眺めながら、時間だけが過ぎていく。

「……痣、」

なかなか治んないなあ、と自分の足首に視線を向け、小さく呟いた。
薄紫色にくすんでいる肌は、見ているだけで複雑な気持ちになる。両膝を曲げてそっと撫でてみるが、痛みはない。ゆるく押さえてはじめて、じわりとした痛みがわたしを襲った。だけど、その程度だった。

布団にごろりと横になる。そろそろ日も暮れる。ご飯は、もう、明日でいいか。外に出るのも面倒だ。……そういえば今日、なにか食べたっけ。
まあいいや、とすぐに思考を打ち切る。眠ってしまえば何も考えなくて済むんだから、と瞼をおろした。

そのすぐ後に、チャイムが鳴った。

「、……」

アパートの大家さんだろうか。それとも隣の人、とかだろうか。ゆっくり立ち上がり、鍵もチェーンもしっかりと閉まった扉へと近付く。ドアスコープから扉の向こうの人を確認して、

「――っ!」

息が、詰まった。

「ともこ、遅くなってすまない」
「な、んで、」

微かに聞こえる扉越しの声は、確かに聞き慣れてしまったそれだった。でも、な、何で。何で?この部屋の事は誰にも教えてないのに。何で、わかるの。何で来ることが出来るの?

わたしの声が届いたのか、扉の向こうの人は一瞬黙り込んで、柔らかな声でわたしを誘った。

「迎えに来た、さあ、帰るぞ。貴様にこんな狭い部屋は合わない。ともこの為、部屋を新しくした。貴様の好きな空色もたくさんある」

閉口するしかなかった。
この人は、わたしが逃げて尚、わたしを慈しんでいるとでも言うのだろうか。有り得ない。本当に、わたしの予想を斜め上の方向へと遙かに超えていく人だ。
どうしたらいい、どうしたらこの人から逃げることができる?
ちらと窓へ視線を向ける。この部屋は二階だ、飛び降りられないこともない。だけど、そこから逃げたことがばれて、走って追い掛けてこられたとしたら。……足の速さではきっと敵わない。
でもこの、働いていない頭でこの人を追い払える気もしなかった。

「……どうした?ともこ。怖がっているのなら、私は怒ってなどいない。安心しろ」

妙に柔らかな声音が、一層の恐怖を与えてくる。
皮肉なもんだなあと口端がほんの少しだけ上がった。この人の所為でうまく表情が作れなくなったのに、この人が此処に来たことで、今、わたしはとても表情豊かな人間となっている。いっそ笑うしかないと、小さな笑い声が漏れた。

「ともこ……?」

粟立つ肌を、そっと撫でる。

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