埃ひとつ落ちていないフローリングの上に、それは冷たく放置されていた。
まるで私を拒絶するかのように、私を捨てるかのように、それは。

「……ともこ、」

身体の力が抜け、床に両膝をつく。何かが手の甲に触れ、ゆるゆると視線を移動させた。
それと同じ材質の鍵が、やはり冷たく放置されていた。
私はそれらを徐に拾い上げ、リビングから繋がる一室の扉を開く。望んだ景色は私を迎え入れることなく、そこには冷えきった空気が広がるばかりだった。

少しずつ、少しずつ、心の臓が凍ってゆく。

「ともこ、隠れているのか?……ともこ、ともこ……」

嗚呼、まさか、そんなはずはない。そんな事が、起こり得るはずがない。
脳の片隅を蝕んでいく妄想を、必死に否定しながら、決して狭くはないが広くもない部屋の中を、歩き回る。捜し続ける。
有り得ないんだ、そんなことは。だって、私は。……ともこは。

不自然なほどにゆっくりとした足取りで、部屋中を捜した。幾度も、隠れられる場所などそう多くはないのに、幾度も、捜した。見つからない。居ない。見つけられない。居るはずが、ない。

思いの外大きな音を立てて、それらが私の掌から滑り落ちた。リビングのフローリングに傷がついた気がしたが、私はその傷も、それも、見ることが出来ない。
理解することが出来ない。納得することが出来ない。把握することが出来ない。
何故、どうして、脳内を埋め尽くす疑問符と共に、涙が両の眼から零れ落ちた。どうしてなんだ、どうして、何故、なぜ。

「ともこ、お前は、私を愛していたのでは、なかったのか」

受け入れたくない現実を、床の上に転がったそれらが突きつけてくる。
私を拒絶するように冷え切ったそれ。それは確かに、比喩ではなく拒絶だった。私への、明確な拒絶だった。

指先だけで幽かに、それに触れる。体温は残っていない。
部屋に戻る。ベッドに触れる。やはり何も残ってはいない。冷えた布地が、私を嘲笑っているようだった。
此処には誰もいないと言うのに、何を捜しているのだと。

はっと気が付いて、リビングのクローゼットを漁る。嗚呼、あった、いてくれた。
これが証だ。此処に居たのだという、証。丁寧に畳まれた衣服。ハンガーにかけられているコート。棚の上の鞄。中に入っている携帯。これが、私を認めてくれる。私の記憶を認めてくれている。

「ともこ……っ、」

あの日以来触れていなかった携帯は、ほとんど充電が切れかかっていた。が、まだかすかに残ってはいる。何とはなしにそれらを見てみると、どこかで見覚えのある名前が着信履歴を埋めていた。

「……伊達、政宗……」

どこで見たのかは思い出せないが、それが男の名であることは確かだった。メールの受信箱も確認してみる。やはり同じ男の名前が見える。

――それは、私への裏切りではないのか。

不意に脳裏を、そんな言葉が掠めた。
私を愛していながら、他の男と連絡を取っていたのか。私を騙していたのか。……いや、そんなはずはない。私を裏切るはずがない。そんなことは、あってはならない。
ならばこの男がいたから、私の元から去っていったのか。この男に唆されでもしたのか。今も、もしかしたら、この男と共に居るかもしれない。いや、違う、しかし、だが。

「……、」

携帯を放り、踏み、砕く。

「嗚呼、まずは、ともこを迎えに行かなければ」

きっと私を置いて去ってしまったことを、今頃悔いているだろう。寂しいと恋しがり、泣いているかも知れない。私が迎えにいってやらなければ。そうしてきつく抱き締め、愛を囁けばもうこんなことはしないはずだ。私の元に帰ってくるはずだ。あの男の事はその後でもいい。何よりも、優先すべきは。

「ともこ、待っていろ。私がすぐに、迎えに行く……」

冷たく打ち棄てられた枷が、私の足下で小さく泣いた。

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