それは講義の最中、唐突に私の脳髄を揺さぶった。
今朝の己の行動を省みる。……私は、ともこの枷に鎖をつけただろうか。ともこの部屋に、鍵をかけただろうか。

ぞくりと全身が震えた。体中の血液が凍り付くような感覚に襲われる。

もし、もしもだ。仮に、本当に鍵をかけ忘れていたとしたら。
――ともこはもう、あの部屋にはいないのではないだろうか。
そんな妄想が脳内を埋め尽くし、私はいてもたってもいられなくなった。鞄を手に取り、足早に席を立つ。講師が咎めるような視線を一瞬こちらに向けたが、気にも留めず私は講義室を後にした。

まさか、そんなはずはない。ともこは私を愛しているのだ。何故逃げる必要がある。
そう思いはするものの、急く足は止まることを知らない。心臓が煩わしい程に脈を刻み、先程まで凍っていた血液は沸騰しているかのようだった。
ともこは逃げてなどいない。ともこがいなくなっているかもしれない。ともこは私を愛している。ともこは私など目もくれていない。相反する妄想が、矢継ぎ早に私を苛んだ。

早く、早くと気持ちばかりが急いて、息が切れる。
ようやくマンションの前に辿り着いた時には、もう私の脳裏はがらんどうとなった部屋でいっぱいだった。打ち棄てられた枷。ともこの体温が残っていないベッド。開け放たれた扉。ああ、ともこ、ともこ、何故私を置いていく。なぜ私を裏切る!?
早急な手つきでエントランスの鍵をあけ、自動ドアをかいくぐり、エレベーターに飛び乗る。そうしてやっと辿り着いた私の部屋の扉を勢いに任せ開けようとすれば、それはガンッと鈍い音を立てて開くことを拒んだ。

……鍵、が、かかっている。

なぜだ、ともこがここを飛び出ていったのならば、鍵は開いているはずだ。ともこは私を捨て、裏切り、ここを出て行ったのではないのか。なぜ鍵がかかっているんだ。

朦朧としかけた意識で扉の鍵を開け、中に足を踏み入れる。リビングの扉は閉まっている。ともこの姿は見えない。
が、時折男の声に混じって、ついぞ聴いたことの無いようなともこの笑い声が私の耳をくすぐった。がやがやとした音、流れる音楽。……ともこはテレビを見ているのだろうか。
己の部屋にテレビがあったことすらいまいち記憶にないが、ともこが見ているのならばあったのだろう。何故か今のリビングに入ることは躊躇われたが、結局、私は恐る恐るリビングへと続く扉を開いた。

「ぷっ、ははは!あ、おかえりなさーい」
「…………、」

ともこは目尻に浮かんだ涙を拭いながら、満面の笑みを私に向けた。
未だかつて、私に向けられたことは無い表情だ。私はそれを、これを、永劫に手に入れることは無いだろうと知っていた、思っていた笑顔だ。ともこが心の底から浮かべる、楽しそうで、幸せに満ちた笑みだった。

私はそれを網膜に焼き付けたいと思っているのに、その願望に反するように視界が何かで滲んでいく。ともこは一度テレビに戻した視線を、今度は訝るように私へと向けた。そうして次に浮かんだ表情までははっきりと読み取れなかったが、ともこはゆっくりと立ち上がり、いつの間にか床へと膝をついていた私の前に、しゃがみ込んだ。
両膝を抱え、私をじっと見上げてくる。滲む視界の向こうで、ともこが私に微笑んでいるのがわかる。

「――…三成、さん」
「……っ!」
「わたし、笑えたんです、まだ」

告げられた言葉の意味を考えるよりも、名を呼ばれたことに胸が震えた。ともこが私の名を呼んだ。三成と、柔らかな声音で。私の、名を。

「どうやらわたしの心は、風船だったみたいですね」
「……?どういう、」
「独り言です。それより三成さん、大学はどうしたんですか?まだ講義中ですよね」

ともこはにこりと笑い私の目尻を撫でると、明確となった視界の向こうで私に背を向けた。テーブルに戻り、椅子に腰を下ろす。

「あ、ああ……ともこが心配になり、抜けてきた」
「うわあ駄目ですよーサボっちゃ。単位落としても知りませんよ」

もしやともこは、私を、本当に受け入れてくれていたのだろうか。逃げることが出来たはずの状況で、それを選択しなかった。私と共に在り続けることを、選んでくれたのか。
そうだとしたら、ともこを裏切ったのは私の方ではないのか。ともこがこの部屋にいないと決めつけ、ともこを恨み、憎み、そして哀しんだ。私は、ここにともこがいない未来しか、想定していなかった。
それは確かに、ともこへの裏切りではないのか。

「そういえば三成さん、わたしここに住み続けるんだったら前の部屋引き払いたいんですけど……って何で号泣してんですか土下座するんですか」
「すまないっ……!すまない、許してくれともこ。私は貴様を裏切った、私はともこを疑い、信じようともしなかった……!ともこを愛していると言いながら、私はともこを信じなかったのだ……っ、すまない、ともこ……!」
「……」

ともこは沈黙している。それもそうだ、こんな私を、愛した女を信じることすら出来ない私を、ともこが許してくれるはずもない。これはともこを疑った私への、当然の報いだ。
今この瞬間にともこが私に愛想を尽かし、この部屋を出て行ったとしても私に後を追う権利は無いだろう。それだけの事をしてしまったのだ。ともこが出て行ったとしても、私を打ったとしても、文句を言うことは出来ない。
いや、むしろ詰られた方がどれだけ良いだろうか。ああ、そうだ。ともこ、私を詰れ。酷く痛めつけてくれ。そうすれば、そうしなければ、私は己を赦すことができない。

「…………」

依然、ともこは黙り込んだままだった。

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