仔猫の反抗 [52/118] 吉継が朱を見つけたのは、もう夜も更けてきた頃だった。 紫と二人で夕食を摂り、話せないことも多くありはしたもののいくらかの対話を楽しんだ朱は、一人ぼんやり、縁側に座り城内の中庭を眺めている。 空には半分の月が浮かんでいて、うっすらと朱を照らしていた。 「……朱、」 朱の背に向け、吉継は彼女の名前を紡ぐ。 その声に反応をしようとして、止め、朱はゆるく視線を彷徨わせた。 恐らく、吉継は朱に何があったのかを察している。 詳しいところまではわからないだろうが、朱が真田軍といる間に何が起きたのか、それはもう既になんとなくであったとしても、わかっているだろうと朱は思っていた。 だからこそあの時、あの場にいることが出来なくなり、逃げ出したのだから。 「ぬしは、われを恨んでおるか」 自分に近付くこともなく、一定の距離を保ったまま問いかけてくる吉継に、朱は彷徨わせていた視線を己の足下に縫いつける。 両足の間で縁側に載せている両手が小さく震えていることに気付き、苦笑した。 「……別に、恨んでなんかいやしませんよ」 「では、未だ怒っておるのか?」 「怒ってもいませんて。大谷さんが何か、間違ったことをしたわけじゃないでしょう」 真田軍に限らず、他国に文を届けるのなら。朱の能力を使うのが最も効率的だと、朱はもちろん理解している。 ただ自分の心情を汲み取って欲しかっただけであって、それは言うなれば、朱の単なるわがままだった。 吉継はただ効率よく物事を進めようとしただけで、何も間違ったことはしていない。この件に関しては。 だから朱は、視線を己の足下から外し、吉継へと振り返る。 視界に入った吉継が思いの外、心痛な面持ちをしていたことに少しだけ目を丸くして、朱は、小さな溜息を吐きながら微笑んだ。 「……何で大谷さんが、そんな顔してるんすか」 朱の表情は、ただ、……ただ強がっているだけに見えた。 吉継には推測することしか出来ないが、己の大切なモノを失い、今までとはまた違う意味で傷付いたはずなのに。そしてその責任の一端は、恐らく、吉継にもあるはずなのに。 目前の朱は正面切って吉継を責めることも、やはり泣き喚くこともせず、ただ笑っている。どこか、自嘲気味に。 「朱よ、ぬしは、おかしいとは思わぬのか。嫌だとは思わぬのか?」 「……?」 「己ばかりが不幸な目に遭うのを、そのような世を、苦痛には思わぬのか」 ああ、と朱は眉尻を下げた。 そして、気付く。 その度合いこそ違えど、吉継は朱の不幸を己に、心のどこかで重ねて見ていたのだと。 朱は縁側の外へ投げ出していた足をあげ、胡座を組みながら身体ごと吉継へと向き直る。 視線は吉継からはずし、また足下に縫いとめて、少し笑おうとしたがいまいち上手く表情を変えることが出来なかった。 「あたしなんか、全然、不幸じゃありませんよ」 小さく、呟く。 「紫ちゃんって割と何でも話せる友だちが居て、まあ話せないこともあるけど、その子と一緒にいられて。三成様はあたしを嫌ってるみたいですけど、それでも好きな人の為に生きることが出来て。毛利さんはちょっと扱いづらいけど、優しいし、美味しいお菓子くれるし。石田軍の人たちはこんなぽっと出のあたしを、表だっては嫌わないでいてくれるし。……大谷さんは時々いじわるだけど、いつもあたしの味方をして、そばにいて、慰めてくれるでしょう?」 ぽつりぽつりと紡がれる言葉に端に、朱が本当のところ、誰も信じてはいないのだという事実が見て取れた。 誰も嫌わない、厭わない。その代わりに、誰も己の懐には入れない。 ……信じないのではなく、信じられないのだ。 朱の過去に何があったのかなど知る術もつもりも無い吉継だが、何となく、それだけは理解できた。 そして、だからこそこの娘は笑っていられるのだろう、とも。 その吉継の思考が正しく朱を現しているわけでは、無いのだが。 「そんな人たちが身近にいるあたしが、不幸になんてなり得ませんよ」 ――だから苦痛を感じることも、おかしいと思うこともない。 まるで自分に言い聞かせるように断言した朱に、吉継は漸く気付く。 朱と己は、似ても似つかぬ存在だということに。 「何度も言いましたが、あたしはあたしが愉しめるように動きます。大谷さんはその上で、今までとおんなじよーにあたしを上手く使ってくれればいいですよ」 「……朱、」 「あたしは大谷さんの、子猫なんでしょう?」 最後にいたずらっ子のような笑みを残して、じゃあおやすみなさい、と朱は吉継の前から姿を消した。 吉継は何とも言えぬ面持ちでそれを見送り、しばらくして、朱が座っていた場所にふわりと輿をおろす。 そこでふと、地面に何かが書かれている事に気が付き、吉継は目をこらした。 大谷さんのばーか 足の指先で書いたのだろう歪な文字に、思わず引き笑いを漏らす。 「やはり怒っているではないか」 小さく溢し、再び輿を浮かせて吉継は己の部屋へと戻っていく。 明日、あのどこにでもいる子供と大差ない子猫の機嫌を取るために、何の菓子を与えれば良いだろうかと考えながら。 |