気忙し人意 [51/118]


「……、」
「どうしたんだ?」

官兵衛さんが大阪城に来てすぐの頃、刑部の命令で朱ちゃんが官兵衛さんに憑けた影の蝶々が、少しだけざわめいたように見えた。
ぱたぱたと真っ黒の羽を瞬かせるように動き、官兵衛さんから一瞬離れて、すぐに元の位置に戻る。

ちらと座敷牢の外へと視線を向けた私に、不思議そうな目線を向けてきた官兵衛さんを見上げて、何でもないですと微笑んだ。

もしかしたら朱ちゃんが帰って来たのかもしれない。
だったら、なんとなくだけど、会わなきゃいけない、と思った。
もちろん数日ぶり程度とは言え話したいこともたくさんあるし、訊きたいこともあるから、会いたい、って気持ちもあるんだけど。
何でかわかんない。わかんないけど、朱ちゃんに会わなきゃ、って思った。

「官兵衛さん、私、ちょっと城の方に戻ってみますね」
「そうか……残念だが、仕方ないな。…しかしお前さん、あっこから戻れるのか?」
「あー……」

気の抜けた声を出しながら、ぼんやりとした光が漏れてくる井戸の先を見上げる。
来るのは良かったんだ。二十分くらいかかったけど、どうにかこうにか入れたから。
だけど帰るとなるとこの高さは……なあ……。
ゲームでもこの井戸に刑部落としたら、すごい一生懸命ジャンプしてたけど全然届いて無かったし。
あっちの道の先にはもちろんジャンプ台なんてものも無いし。

「ええと、官兵衛さん、お願いします」
「……次はあの影使いの娘さんと一緒に来ることをお勧めするね」
「そうしますわ……」

官兵衛さんと鉄球と私自身の力をどうにかこうにか駆使して、私は井戸の外に出た。
井戸の端に思いっきり腕ぶつけたけど。すっごく痛かったけど。下の方から官兵衛さんの「あっ」て声聞こえてきたけど。

後で湿布薬でももらいに行こう……。


――…


幸村んとこから帰ってきたなら刑部の部屋にいるかな、と思って刑部を尋ねてみたものの、「朱なら来ておらぬぞ」と何とも言えない表情で門前払いをくらった。
そういえばあの二人、喧嘩?してたんだっけ。喧嘩っていうか、朱ちゃんが一方的にガチギレしてただけにも見えたけど。
結局あれ原因なんだったんだろう。

刑部んとこにいないなら自分の部屋だろうと思って朱ちゃんの部屋に向かう。
けれど、数回ノックしても返答は無い。寝てるのかな。ていうか本当に帰ってきてんのかな。ちょっと不安になってきた。
仮に朱ちゃんがいてもいなくても、返事が無いのに部屋入るのは悪いし、なあ……。

「出直すしかないか……」

ぽつりと呟く。と、ゆっくりだけど部屋の襖があいた。ちょびっとだけ。

「……紫ちゃん?」
「え、あ、うん。おかえり、朱ちゃん」
「ただいま。……紫ちゃん一人?」
「?そうだよ」
「……」

朱ちゃんは私から視線を離して、隙間からじろりと私の周囲を見渡す。
それで周りに誰もいないとわかったのか、ようやく襖を半分ほどあけた。

「ちょうど良かったわ。紫ちゃんと色々離したかったし、入って」
「私も話したいことあるんだー、お邪魔します」
「ならばわれも邪魔するとしよ」
「「っうわあ!!?」」

私の背後からぬっと現れたのは、声からして、多分刑部で。
いきなり聞こえてきた声に私と朱ちゃんは叫び声をあげながら、なだれ込むように部屋の中へと入っていった。
刑部は、そんな私たちをヒヒヒと笑いながら、見下ろしている。

「朱よ、帰ってきておったのならば何故われに報告に来ぬ」
「……すんませんしたぁ」

後ろ手に襖を閉めて、畳の上へと降り立った刑部はじっと朱ちゃんを見つめている。どことなあく睨んでいるようにも見える視線に、朱ちゃんはぶっすぅとむくれた表情でぞんざいな謝罪を口にした。
やだこの子すっごい拗ねてる。

「あの、私、席外した方がいいですか」
「ごめん紫ちゃん、ちょっと聞こえなかった。なに?」
「あ、イエ、ここに居させていただきます」

今帰ったら末代まで祟るからな!と言わんばかりの朱ちゃんの視線、そしてがっしり掴まれた腕に冷や汗を垂らしながら、浮かしかけた腰をおろす。
刑部はそんな私をちらりと見て、すぐに朱ちゃんへと視線を戻した。

「もしやぬし、まだ怒っているのではあるまいな?」
「別に怒ってはいませんよ、半分くらいしか」
「なるほど、怒っておったのか」
「……、」

むっすうと唇を尖らせて、朱ちゃんが刑部を睨む。
そこで不意に刑部が顔を顰めて、朱ちゃんの身体を、上から下までじろりと見つめた。その視線にはっとして、朱ちゃんが急に立ち上がる。

「っあたし、用事思い出したんで!失礼します!」
「えっ朱ちゃん!?」
「ごめんね紫ちゃん後で晩飯一緒に食べよ!?」
「りょ、了解だ…?」

そのまましゅるんと影の中に沈んでしまった朱ちゃんを、呆気にとられながら見送り、刑部に目を向ける。
刑部はすっごい難しい顔で、なにかを考え込んでいるみたいだった。

「……朱ちゃんが、どうかしたんですか?」

確かにさっきの朱ちゃんは、誰がどう見てもおかしかったけども。
でもおかしくなったのは刑部がじろじろ見てからだ。てことは、刑部が朱ちゃんの何かに気付いたんじゃないかとも思う。

「……、…紫、」
「え、はい?」
「ぬしは朱と、長い付き合いであったな」

唐突な質問に、顔を顰めてはてなを浮かべる。

「長いってほどでも無いですけど……まあ、それなりに?」
「朱に、男がおったことはあるのか」
「……?私の知る限りでは、無いですけど」

ああでも一ヶ月だけ付き合った彼氏がいたって話を、聞いたことがあるような無いような…っていやそれはまあ良くて。
何でそんなこと、刑部が気にすんだ。実は朱ちゃんのこと狙ってんのか?

「……さようか」

それだけ呟いて、刑部は部屋を出て行った。
朱ちゃんの部屋に残されたのは私一人だけとなり、あれ、これどうしたらいいんだ?と首を傾げる。

「とりあえず…自分の部屋戻るか……」

ばたばたしまくりの現状についていけないのは、私が何も知らないからなのかもしれない。
もうちょっと石田軍に貢献しなきゃいけないのかもなあと思いつつも、脳裏に浮かぶのは官兵衛さんと朱ちゃんの姿だけだった。

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