さよなら雑音 [73/118]


すたすたと朱は、紫と紫を庇うように立っている官兵衛のそばまで距離を詰める。
わざとらしい、悲しげな表情を浮かべ、ほんの少し拗ねたような表情も混ぜて、朱は官兵衛の背に守られている紫の顔を覗き込んだ。

「官兵衛をここから出すのは大谷さんへの、延いては三成様……石田軍への裏切りだよ。紫ちゃんは生かしてくれたあの人たちを裏切るの?官兵衛方についたら、多分、三成様は君を殺そうとするはずだよ。それでもいいの?三成様は紫ちゃんを好いているから、愛しさ余って憎さ百倍、地の果てまでも追い掛けてくるかもね、怖いねえ」

一拍をあけ、朱はまた、今度はわざとらしい笑みを浮かべる。

「そういえば石田軍だけじゃないね。あたしはここを離れるつもりはないから、紫ちゃん、官兵衛についてったら、あたしも裏切ることになるね」

にっこりと貼り付けたような朱の笑みに、紫の表情が泣きそうに歪む。
官兵衛はそんな朱を睨むように見下ろしていたが、数瞬の間の後、違和感を覚えた。

「朱ちゃ、ん、」
「やっぱりやめるってんなら黙っといてあげる。紫ちゃんの裏切りによってこれ以上三成様が死んじゃうのはあたしも本意じゃないしね。どうする?紫ちゃん。それでも官兵衛について、官兵衛が天下をとるための道を、一緒に歩む?」
「それ、は……」

黙り込んでしまった紫と、にこにこと笑う朱とを順番に見下げ、官兵衛は朱に視線を留めた。
朱は官兵衛を見ようとはせず、ただ紫だけを見つめている。
じっと。その目が笑んでいないことに気が付き、官兵衛は、違和感の正体を見つけた。

「お前さん、よくもまあ思ってもないことをそうすらすら言えるもんだな」

ぱちん、と緊迫していた空気が弾ける音がした。
紫が「官兵衛さん、何言ってんの、」とやや震えた声を漏らす。
それに相対するように朱はきょとんと表情を崩して、けらけらと乾いた笑いをこぼした。笑い声は次第に、楽しそうなものへ変わっていく。そうして最後には、ひーっ、と引き笑いになって、朱はもう耐えきれないとばかりにお腹を抱えた。

「紫ちゃんびびりすぎ!さすがのあたしもちょっとショックだよ、もう」
「え、え……?」
「っはー、笑った笑った。しっかし官兵衛さんは変に頭が良くて困りますねえ、もうちょっと黙っててくれてもよかったのに」
「小生はお前さんより紫の方が大事なんでね」
「はは、そりゃよかった」

え、え、え?と何がなにやらわからず呆然としているのは紫だけで、どこか楽しそうにしている朱と官兵衛をきょろきょろと見やりながら、紫はとりあえずのため息を吐いた。
よくはわからないが、今までのは、朱の演技だったらしい。そう気が付く。

「でもま、言ったことは割と本気だよ。紫ちゃんは三成様に殺される覚悟がある?官兵衛を逃がすための道は?逃がした後はどうすんの?そこら辺ちゃんと考えてんならあたしは何も言いませんけど」
「……三成には殺されかねないなあと思うけど、そうなったら逃げるし、大丈夫だよ。道は……まだわかんないけど。ここから出た後は、北条に行くのが一番かな、って」
「その北条までの道はどうすんの。いきなり紫ちゃんと官兵衛が現れて、北条殿がいなかったらどうする?君らは受け入れてもらえず交戦になる可能性もある」
「そ、れは……ええと、官兵衛さんが」
「小生に丸投げ!?」

くはっ、と吹き出して、朱はばしばしと紫の肩を叩いた。
紫ちゃんらしくない、君、もっとしっかりしてたろ、と笑い混じりに吐き出して、けれどすぐに表情を引き締める。

ぽん、と宙に現れたのは、影を切り取ったような真っ黒の蝶々。
それは静かに羽ばたいて少し乱れた紫の頭上に留まり、羽を休めるように折り畳んだ。

「北条殿も小太郎も、今は小田原城にいるよ。今日中に行けばなんの問題もなく進むけど……紫ちゃん、なんかあたしに頼むことない?」

あくまでも自分から言い出すつもりはなく、朱は紫に答えを託す。
紫は逡巡し、押し黙った。
官兵衛を見上げ、朱を見下げ、唇を噛む。
あたしも裏切ることになる。そう言った朱の言葉は紫の心に深く突き刺さっていて、けれど、だけど、紫は官兵衛のことも捨てられなかった。

ゆるく、静かに、紫は言葉を紡ぐ。

「朱ちゃん、お願い。私と官兵衛さんを、小田原に連れていって」
「あいあいさー」

へらりと朱は微笑む。
先に言った通り、三成はこの裏切りを許しはしないだろう。朱が紫を見逃したこともどうせすぐに知られることで、となると紫だけでなく朱にも刃が向けられる可能性はある。
それを朱は理解した上で、広げた影に紫と官兵衛を沈ませた。自身も影に沈み、小田原へと移動する。

どう足掻いても紫は朱の友人で、やっぱり朱は、紫のことを捨てることはしなかった。
けれど同時に、今自分は、紫も三成も切り捨てたのだと、朱は苦笑気味に理解をしていた。
もちろんそれは、紫も。

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