落ちる、現実 [116/118]


鶴姫の次に朱の病室を訪れたのは、大谷吉継だった。
マスクや袖の長い衣服で肌を隠してはいるものの、車椅子や杖などは使用しておらず、概ね健康そうに思える。朱は心の底で安堵に近いものを抱いた。
しかしその瞬間、吉継の指先に額を弾かれる。

「い゙っ、え、お、大谷さん!?」

目を白黒させながらぴりぴりする額を押さえる朱を、吉継はじとりとした目で睨めつけた。その瞳だけは相変わらず白黒反転し、不気味さを内包している。
朱はひくりと頬を引きつらせ、すぐさま謝罪しようとした。が、先の鶴姫とのやりとりを経ても尚、朱の口は容易に『ごめんなさい』の文字列を紡ぎはしない。
口ごもる朱に嘆息し、吉継は薄ら赤くなった朱の額を指先だけで撫でた。

「いつぞやかに三成が言うておったわ、ぬしは嘘を容易に吐く人間であると」
「……、」
「全くもってその通りよな。われに「またどこかで」などと言うておきながら、ぬしはその後四百年以上もわれの前に姿を見せなんだのだから」
「いやあそれは……佐助があたしの死体持ってったからじゃ……」
「何か言うたか?」
「何でもないっす」

わざとらしい笑みを貼り付ける吉継に、朱は両手をあげて冷や汗を流す。
そうして暫しの沈黙の後に、そうっと、窺うように呟いた。

「……ごめんなさい、大谷さん」
「われが何を言おうが、ぬしは無茶ばかりをする。われから離れたくないなどと言うた口で、あっさりと別れの言葉を告げる。ぬしの言葉は嘘ばかりよなァ」
「ごめん、なさい」

吉継は何も言わず、朱もそれ以上何かを言うことは出来ない。
項垂れる朱を横目に、吉継はひとつ、小さな溜息を漏らした。朱の肩が跳ねる。

「朱よ、ぬしは……ぬしが進んだあの道で、幸へと至ったのか」

その問いかけはあまりにも唐突で、朱は一瞬その言葉を理解できなかった。
目を丸くし、吉継へ視線を向ける。しかし視線が絡むことはなく、吉継の顔は窓の外へと向けられていた。
朱もつられるようにして、窓の外を見やる。

「あの瞬間のあたしは、三成様の為だけに生きてました。だから、自己満足だと解っていても、他の誰かが哀しんだとしても……三成の為に死んだ、あの道は、あたしの幸せに繋がっていました」
「……さようか」

再び、病室に沈黙が落ちる。
吉継から何かを言い淀む気配を感じて、朱は首を傾げた。「大谷さん?」と名前を呼ぶが、吉継は反応をしない。

軽蔑されただろうか、朱がそれも致し方ないと肩をすくめ苦笑した時。

「三成が、……ぬしの存在を覚えていなくても、か?」

そうっと、憐れみの篭もった声が朱の鼓膜を揺らした。
朱がそれを理解するには、時間のかかる言葉だった。

「、…――は、……?」

朱の口から吐息が漏れる。喉の下の方が震えて、言葉にならなかった。

鶴姫がいた。吉継がいる。ならば三成も、他の……元就や佐助、官兵衛たちもいるのだろうとはなんとなく思っていた。
そして当然のように鶴姫と吉継があの世界での話をするのだから、当然他の人たちも記憶を持っているのだろうと。覚えているのだろうと。自分を、朱と紫のことを知っているのだろうと。
そう、考えていたのに。

吉継は重ねるように告げた。「三成は朱と紫のことを覚えてはいない」と。
あの世界での記憶はある。ただ、朱と紫のことだけがすっぽりと抜け落ちていた。三成にとって朱とは己を庇って死した女などではなく、三成にとって紫とは己が恋した女ではなく。
ただの、見知らぬ存在でしかない。

「……、」

朱は吉継の告げた事実に、何も返すことができなかった。

脳裏には、鶴姫に言われた言葉が浮かんでくる。
『ごめんなさい』は罪を認めるための言葉だと言っていた。しかし、謝罪を向ける相手が、自分のことを知らなかったら。
それは本当に、自己満足の言葉にしかならない。鶴姫はああ言ってはいたけれど、『ごめんなさい』の言葉は、相手に届かなければ意味が無いのだ。受け取る、受け取らないは別として。

だとすれば、もう朱は三成に謝ることも出来はしない。
何度も飲み込んだ言葉が、ぐずりと音を立てて、朱の中で腐り始めた。

「っは、は……なにそれ」

乾燥した笑い声に、吉継はただ朱を見つめる。

「じゃあ、もう、縋る場所も……意味も、……無いじゃん」

掠れ気味の声で朱は呟く。片手の平で目元を覆い、立てた膝に顔を埋めた。
背中を震わせる朱に、吉継は目を伏せる。あの頃の己であったなら、この朱の不幸を喜んだだろうか。嗤ってやっただろうか。

ゆるく、頭を振った。


――…


同時刻、暫く官兵衛と話していた紫は、ようやく先から抱いていた違和感の正体に気付いた。気付いて、しまった。
それは官兵衛が、冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出した時。

コツ、と。指先とペットボトルとが触れるには、あまりにも固すぎる音が小さく響いた瞬間だった。

「……かんべ、…さん?……あれ、その、手……」
「ああ、気付いたか」

へらと官兵衛は笑ってみせる。対して紫は、うまく表情を作ることができない。
両手を開いて見せた官兵衛の手は、人工的なものだった。何故今まで気が付かなかったのか、不思議なほどに。

「何で、……っえ…?」

唖然とする紫に、官兵衛は何でもないことのように語る。
生まれつき両腕が無かったのだ、と。
紫には告げなかったが、官兵衛にとってはもう慣れたことだった。なんせ、関ヶ原を終えてから何回も繰り返した人生、全てで両の腕の存在を喪っていたのだから。
それが己と紫の罪を得た結果ならば、それでもいいと官兵衛は思っていた。幸い、現代では義手の技術も随分と発達している。今までの人生では、一番不便をしていない。
それに今世では紫がいる。それなら何の問題もない。

しかし、紫はそうとは思わなかった。

「官兵衛さん、の、枷……外すって、言ったのに、」

官兵衛の枷は時代を経て無くなった。しかしそれは、両腕と共に、である。
それは、永劫外すことのできない枷を官兵衛に嵌めてしまったことと、紫にとってはなんら変わりなかった。
そしてそれが己の所為なのだろうことも、紫は理解してしまっていた。

紫は今まで、どの世界――原作や二次創作で――でも、両腕を失った官兵衛を見たことはなかった。
何が関係しているのか、を考えれば、それは自分の存在でしかない。

紫が官兵衛に背負わせた罪が、官兵衛の腕を奪った。
誰が何を言おうと、紫の中でそれだけが唯一の事実だった。

「お、おい……紫?」
「何で、こんなの、なんのために私は…――」

震える声を必死に抑え、紫は己の顔を覆う。

――「お前の行動は、いつか己だけでなく、黒田の身をも滅ぼすぞ」
浮かんできたのは、最期の瞬間、孫市に告げられた言葉だった。ああ、まったくもってその通りだ。そんなことさせないって言ったのに、私は、私のせいで、官兵衛さんは。

紫の震えがぴたりと止まる。必死な官兵衛の声もまったく耳に届かず、紫はただじっと、己の掌を睨み続けた。

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