果報者の恩渡し [104/118] 朱の元に集まってきた石田軍兵士たちは、既に現状を正しく把握しているらしく朱に続くように暁丸への攻撃を始めた。 それに小さくお礼を言い、朱も攻撃を続ける。 少し離れた場所では毛利軍兵士と長曾我部軍兵士が、僅かに長曾我部軍優勢で戦いを続けており、それらに囲まれるようにして元就と元親は刃を交わしていた。 「我は何も間違っておらぬ!策も、我が人生の道行きも、全て!!」 「そうだろうな。ただそれが、どこまでも虚しいってだけだ」 「黙れ!!貴様が我を語るなど許さぬ!」 「朱様、ここは私共にお任せください!朱様は、毛利殿の元へ」 「、けど」 「今の毛利殿は冷静さを欠いております、どうか」 兵の言葉に、朱は暫し黙り込んで元就と元親へと視線を向ける。 確かに冷静じゃない。そんなのは誰にだってわかる。毛利軍の兵士たちが動揺を見せているのもその所為だ。 けれどそこに朱が入ったところで何が変わると言うんだろう。朱の参入は元親を煽るだけのものであって、元就に冷静さを取り戻させるものには思えない。 しかし「早く!」と急かす石田軍兵士に半ば押されるようにして、朱は暁丸の元から離れた。暁丸の状態を見れば、もう撃破間近だろう。 となると、大きな戦力のひとつである朱が暁丸に拘っているよりかは、元就のフォローに向かった方が良いのかもしれない。 数秒の戸惑いの後に頷いた朱は、暁丸を兵士達に任せ、元就の元へと走った。 朱の姿に、先に気が付いたのは元親だった。ちらと朱に視線を寄越し、すぐに元就に戻す。 元就は壁を出したところで、それをギリギリのところでかわした元親は身体全体を使って碇槍を上方から大きく振り下ろした。しかし碇槍は輪刀によって受け止められ、暫しの鍔迫り合いが続く。 「お邪魔しますよーっと」 ひょいと影の中に沈んだ朱が、場にそぐわぬ声と共に二人の足下から姿を現した。 朱の影送りを初めて目にした元親は直ぐさま警戒を滲ませつつ後退し、元就は怒りに満ちたままの瞳で朱を見下げる。 「何故邪魔をする!」 「おおこわ。毛利さんちょっと落ち着いてくださいよ、そんなガチギレてたら隙突かれますよ」 「貴様には解らぬ!!」 ほらみろ、と朱は半目で遠くを見やる。 今の元就には元親しか見えていない。今でさえ、朱の背後にいる元親を鋭く睨み付けている。無理矢理朱を突き飛ばして進まないのを見ると、少なからずの理性は残っているようだが。 「何をそんなキレることがあるんすか。仮に毛利さんが死のうが生きようが、あたしは毛利さんのこと忘れたりしませんよ」 溜息混じりに吐き捨てた朱の言葉に、一瞬、元就と元親の時が止まった。 はくはく、と数回、元就の唇が言葉を探して動く。しかし何も見つけられず、小さな吐息だけを漏らしてその口は再び閉じられた。 「確かに長曾我部さんと比べれば毛利さんを思い出す人数は少ないかもしんないすけど、あたしは毛利さんを忘れません。何度だって思い出します。毛利さんが居たことを知ってます。毛利さんが進んでいる道が、あなたにとって正しい道だと知っています」 ……それじゃあ、ダメですか。 静かに、朱は元就の顔を真っ直ぐに見つめる。 突然の言葉に元就の頭は正常に機能せず、ただ、朱を見つめ返すだけだった。 元就が朱を欲しいと感じた最初の理由は、ただ気になったからだった。 人を殺したこともなさそうな、あどけなく、無防備な女。それが似合わぬ薄い笑みを貼り付けて、関係の無い人間ならば殺せるなどと宣う。その笑みの残酷さと、第一印象との不釣り合いな感覚に惹かれた。 会う回数が増えると、また別の顔にも見惚れてしまった。 子供のような笑顔で甘味を食べる姿。元就を見る時のなんとも言い難い困ったような視線。不意に見せる冷たい笑み。鬱血痕を上書きした時の、怯えた表情。その直後に、何も無かったかのように無理矢理微笑んでみせた口元。官兵衛と紫の事を伝えてきた時の、必死な表情。 それら全てが、色濃く元就の中に残っている。無彩色な記憶ばかりの中で、きらきらと、朱に関するものだけが彩りを見せている。 しかし元就は、朱を手に入れることは出来ないと知っていた。 己は吉継のものであると公言し、何があっても石田軍から離れない朱の姿。時折漏らす「三成様」の言葉と共に見せる、冷たくも柔らかな瞳。 朱の心はそこにあるのだと、朱を欲している元就だからこそ解ってしまった。 故に、元就は己の想いを口にすることはなかった。 言葉になど、出来るはずがなかった。 手に入らぬ物を欲してしまったのは自分だ。手に入らぬからこそ、欲が喉元を引っ掻くのだ。 元就が求めたのは、"石田軍にいる朱"であって、"元就の物になった朱"ではない。 元就はとうの昔に、朱への想いを飲み下していた。 手に入らぬのならばそれでいい。もしいつか、朱がどこにも行けなくなってしまった時、己だけが朱の逃げ場所になれるのなら、それで充分だと。 そんないつかは来なくていい。来るはずがない。 元就はそう思っていた。そう、己に言い訳をしていた。 朱が、「あたしは毛利さんのこと忘れたりしません」と言った瞬間。 それは三成が朱に「貴様の号哭は、信じるに足るものだと認めてやる」と言った時と同じ。 元就が、初めて、報われた瞬間だった。 「……朱、貴様は下がっておれ」 「少しは落ち着きました?」 「元より我は激昂してなどおらぬわ。……だが、」 小さく首を傾げていた朱の目が、驚きに染まり、まあるく見開かれる。 それは、元就が今まで見たことの無い程に優しく、穏やかな笑みを浮かべていたからだった。 「礼を言う」 朱の脇をすり抜け、元就は元親と対峙した。今度は冷静な、いつも通りの元就の表情で。 対して朱は、思わず赤くなってしまった顔を落ち着かせるのに必死だった。 |