次の日には体調もすっかり良くなり、私はまた諸事情で大学へと行っていた。
元就さんは風邪が治ったばかりの私が外に出るのを、あまり良く思ってないみたいだったけれど、私には私の事情があるのを理解してくれているんだろう。気をつけろ的な発言と、優しく私の頭を撫でる手で見送ってくれた。

それが嬉しくて、苦しくて、最近の私は絶対に、おかしい。


昼過ぎに家を出て、大学での用事は八時を過ぎた頃にやっと終わった。
家を出る前に毛利さんには遅くなる旨を伝えていたけれど、一応、家のパソコンに「着くのは九時くらいになると思います」と送信しておく。

三十分ほど経って、返信を告げるバイブレーションに気が付いて、視線を落とした瞬間。
もう、マンションまであと少しで、明かりのついている自分の部屋も見えるくらい、だったのに。

「っ、!?」

私は誰かに強く腕を引かれて、路地の裏へと、投げ出された。

自分に何が起きたのか分からなくて、目を白黒させる。
壁に打ち付けた背中と腰が痛い。お尻も打って、じくりと痛んだ左肘からは血が出ているみたいだった。

「な、なに、」

目の前に立った人影を、ゆるりと見上げる。
体つきのがっしりとした、背の高い、男の人のようだ。
声が、体が、震える。

何だろう、私はこの人のことを、知らない。でも、猫なで声で私の名前を呼ぶその男性は、私のことを知っているようだった。

「小晴ちゃん、最近、知らない男とよく一緒にいるよね?お祭りの時も、綺麗な浴衣を着ていた小晴ちゃんはすごぉく可愛かったけど、でも、あの男は誰かな。俺というものがありながら、他の男にも手を出すなんて、俺の小晴ちゃんらしくないねえ」

硬い手で、頬を撫でられて全身に鳥肌が立つ。

ああ、人って、本当に怖いと思ったときは、声が出ないって、本当だったんだ。
叫びたいのに、喉の奥が引きつって、声が出ない。
ぽろぽろと恐怖の涙だけが溢れて、歯がガチガチと震えた。

なに、この人。誰?なんで、私のことを知ってるの。
俺の小晴、って、私、この人の事、知らないのに。

「きっとあの男に、誑かされてるんだよね。だから俺が助けてあげる。今までも、これからも、俺は君を見守るだけでいようと思ったけど、小晴ちゃんが困っているなら、俺は、」

ごくり、男の人の喉が動いた。

「俺が、小晴ちゃんを守ってあげる」

抱き締めるように頭を抱えられて、奥底から感情が弾けるように、体が動いた。
嫌だ、嫌だ嫌だいやだ!気持ち悪い!

どんっと男の人を押しのけて、這い回る芋虫みたいに男の人から距離を取る。
まだそんなに遅い時間じゃないし、通りに戻れば人もいるだろう。
喉からはひゅうひゅうと呼吸音が絶え間なく流れ出ていて、酸欠になりそうだった。胸が痛い、視界がゆがむ。

「いたた…酷いなァ、小晴ちゃん」

なんとか立ち上がった瞬間、右手首を、硬い手に掴み取られた。

「やっ、やだ、…っ」
「おびえる顔もかわいいね、さすが俺の、小晴ちゃんだ」
「た、すけ、もとなりさ、元就さんっ…!」

男の体が、顔が、次第に近付いてくる。
ぐちゃぐちゃになった思考回路の中で、もうだめだ、そう思いながらも無意識に呼んでしまったのは、元就さんの名前だった。

呼んだって、どうにかなるわけでもないのに。
だけど。

「――…っ、え…?」

今まで聞いたことのない、鈍くて、重くて、痛そうな音が耳に届いて、脳の奥を揺らした。
それと同時に、手首にまとわりついていた不快感から解放される。

視界に映るのは、この半月で見慣れてしまった、焦げ茶の綺麗な髪の毛。


「…貴様のような、駒にすら劣る虫螻風情が、我の小晴に触れるでないわ!」

元就さんが、立っていた。
私の、目の前に。背を向けて、守ってくれるように。

落ち着いてきた心拍数に、深呼吸をしながら、視線を動かす。
さっきまで私の手を掴んでいた男の人が、脇腹を押さえて苦しそうに、地面に横たわっていた。ひどく唸っているから、多分、もの凄く痛いんだと思う。

「も、元就、さん」

私の呼びかけも無視して、元就さんはその男の人に近付いていった。
そしてその胸ぐらを掴み、顔面にパンチを一発。「ひっ」と上擦った声が、私の喉から漏れた。い、痛い。
ほんの数分前の恐怖も忘れて、男の人に思わず同情をしてしまう。
だって、戦国時代の、私より重いらしい武器を振り回して戦う人の、拳だなんて。絶対、痛いに決まっている。下手したら死んでしまうかもしれない。

「もと、も、元就さん!」

その事実に慌てて元就さんの浴衣の袖をひっぱれば、毛利さんは鋭い視線で私を射抜いた。
元就さんの下、男の人は酷い顔でがたがたと震えている。
何を言えばいいのかわからなくて、ただ、首を左右に振った。元就さんは嘆息し、男の人の上から避ける。

「今後一切、我の小晴に近付くでない。また再びこのような事をすれば、その命、捨てることになると思え」

静かに吐き捨てた元就さんの言葉に、男の人は泣きながら首をぶんぶんと縦に振って、走り逃げていった。

改めて思えば、体格、全然違うのに。
やっぱり元就さんって強いんだなあと、ぼんやり考えてしまうのは、元就さんが来てくれて、安心したからだろうか。

「……小晴、帰るぞ」
「、あ…」

とすん、腰が抜けた。今更になって。

「す、すみませ、なんか、安心したら…腰、抜けちゃった、みたいで」

じわりと涙もにじんでくる。
怖かった。ただ、ただ怖かった。

力で絶対に敵わない存在が、私の目の前にいることが。その存在と、言葉が通じないことが。
私は、恋はしたことないし、彼氏もいたことないけど、そういう知識が無いわけじゃない。あのまま、元就さんが来てくれなかったらどうなっていたかなんて、したくもないけど、想像できる。
自分に何が起きていたのか、改めて理解をすれば、それがひたすらに怖くて、恐ろしくて、仕方がなかった。

「ごめ、なさい」

地面にへたりこんだまま、溢れる涙が止まらない。
背中も、肘も、膝も、胸も痛い。

元就さんに、助けてくれてありがとうって、伝えなきゃいけないのに。
それ以降、口を開いても声は出なくて、ただ、嗚咽が漏れるだけで。
どうしよう。力の入らない体が情けなくて、唇を噛む。


そんな私を、元就さんは静かに、抱え上げた。


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